茅場町駅・八丁堀駅周辺の静かな佇まいの神社めぐり ②
~ 新川大神宮 ~
『ギフト、そして自分も楽しむ』をアジェンダとして取材します、rosemary sea です。
「茅場町駅・八丁堀駅周辺の静かな佇まいの神社めぐり」シリーズ、第2回の今回は、新川大神宮(しんかわだいじんぐう)をご紹介します。
それでは・・・
御由緒
新川大神宮の由来は、伊勢内宮の社僧慶光院所蔵の古文書「慶光院由緒」並びに江戸名所図会に詳しい。
当宮は慶光院周清上人(けいこういんしゅせいしょうにん)が寛永2年(1625年)徳川2代将軍から江戸代官町に屋敷を賜り、邸内に伊勢両宮(内宮・外宮)の遙拝所(ようはいしょ:遠く離れたところから拝むために設けられた場所)を設けられたのに始まり、その後明暦3年(1657年)江戸の大火で類焼したので、この年替地を霊岸島に賜り社殿を造営、以来実に300年を経た。
爾来当地は河村瑞賢(かわむらずいけん)が隅田川に通ずる水路を開いて舟揖(しゅうしゅう:こぎ舟)の便に利するに至って「新川」と称し、当宮を中心として酒問屋櫛比(しっぴ:隙間なく並んでいること)し殷賑(いんしん:活気があり賑やかなこと)を極め今日に至るまで酒類の一大市場となった。
当宮は夙(つと)に当地産土神(うぶすながみ)として庶民の崇敬を聚(あつ)め、特に酒問屋の信仰篤(あつ)く、毎年新酒が着くとこれが初穂を神前に献じ、然(しか)る後初めて販売に供した。
明治維新により幕府の庇護が絶えてからは専ら酒問屋の守護神として崇敬厚く奉斎し来ったが、昭和20年(1945年)3月9日の戦災に罹(かか)り社殿を烏有に帰した(うゆうにきした:失った)。
その後、新川も戦災焦土で埋め旧態を失ったが、再び往時の繁栄を恢復(かいふく)しつつあるのは全く当宮御神威の賜物である。
偶々(たまたま)昭和27年(1952年)が講和条約発効独立恢復の年にあたる故をもって、酒問屋有志は深く当宮の御神徳を景仰(けいこう・けいぎょう)し感激措(お)く能(あた)わず、即ち社殿の再建を発起し、洽(あまね)く協賛を全国同業者に求めて同年5月7日地鎮祭、9月5日上棟祭、10月17日竣工遷宮並びに例大祭を執行、聊(いささ)か神慮に応え奉(たてまつ)り、敬神崇祖の微衷(びちゅう)を捧げた次第である。
茲(ここ)に当宮再建の由来を記し、同業協賛の美挙を載せて後世に伝えるものである。
昭和27年10月17日
奉献 清酒菰樽(こもだる)
江戸時代、新川は日本酒(清酒)の銘醸地である上方から江戸に移入される「下り酒(くだりざけ)」の問屋筋として栄えました。
寛永2年(1625年)にこの地に創建された新川大神宮は、酒問屋・酒造家の守護神として崇敬を集めています。
当時、江戸へは酒を木樽に詰め、専用の樽廻船(たるかいせん)で輸送していましたが、その際、樽の破損を防ぐ目的で菰を巻き付けたのが菰冠(菰樽)の始まりといわれています。
そして、菰には他の銘柄と区別するために、各銘柄の特徴を表すデザインが施されました。
ここに積まれている菰樽(2斗樽=36リットル)は、永年に亘り新川大神宮とご縁を結ばれている敬神会会員はじめ、全国各地の敬神の念篤き酒造家より献納されたものです。
ご奉献頂いた方々に感謝申し上げますと共に、酒類業界を始めとした我が国の伝統的食文化を担う諸産業が益々栄えますことをご祈念申し上げます。
右下には、ロズマリがこのブログでいつもお世話になっております「白鶴」さんの樽があります。
12月28日、「2020年 新川大神宮 樽酒祭り」が行われたそうです。
上方よりの「下り酒(樽酒)」、それの量り売りが行われたという「樽酒祭り」。
第2回の今回、6蔵で用意された2斗樽12丁、1斗樽12丁、併せて36斗(=720ml詰 450本)の樽酒は、全て完売となったそうです。
酒問屋の蔵の連なる「新川」は、そこで酒の商いや「新川締め(※)」、新酒番船といった伝統行事も含め、江戸風俗として人口に膾炙(※)していました。
江戸の町民たちも親しみを込めて川柳や狂歌に「新川」を詠んでいます。
※ 「新川締め」とは・・・
「三本締め」「一本締め」「一丁締め」などと同様の「手締め」の一種です。
江戸時代から現在まで酒問屋に伝わる伝統的な手締めで、商談成立や新年初売りなどの行事の際に行われてきました。
現在でも酒問屋衆の間では、新川大神宮の例大祭の直会などで「新川締め」が行われています。
ー 新川大神宮 ホームページ より ー
※ 人口に膾炙する
(じんこうにかいしゃする)=話題になる。
今回も江戸古典落語をご披露します。
第29回になりました。
今回は「酒」つながりで「御神酒徳利(おみきどっくり)」をご紹介します。
「御神酒徳利」
12月13日は煤取り(すすとり)、年に一度の大掃除。
馬喰町(ばくろちょう)の旅籠(はたご)、刈豆屋(かりまめや)でも総出での煤取りも終わり、御神酒徳利を上げる段になりましたが、将軍家拝領の家宝の徳利が見つかりません。
実は通い番頭の善六が台所の隅の水がめに入れたまま、すっかり忘れていたのです。
店中大騒ぎ、善六も思い出さず家に帰りましたが、ふと水がめに隠したことを思い出します。
今更言い出しにくい、と、女房に打ち明けると、女房の父は占い師、父の言うような口上を伝授、そろばんで占うように言い含めて善六を送り出します。
店に戻り、善六は「一生に三度、易が当たる」と言い、そろばんで徳利のありかを言い当てます。
この宿に泊まっていた大坂の鴻池の支配人、この話を聞いて善六に、娘の病気を占いで見てもらいたい、と。
支配人と大坂へ出立の善六、神奈川宿で今度は巾着紛失事件に遭遇、頼まれて二度目の占いをすることに。
占いの部屋にこもった善六、そこへ店の女中が白状にやってきて、父の病気の薬代のため盗み、庭のお稲荷さまの床下に隠してある、と。
善六、皆の前でそろばんをはじき占い、お宮が壊れたままをお稲荷さまが怒っている、と。
巾着はほこらから出てきます。
宿からのお礼30両のうちの5両を、くだんの女中に恵みます。
大坂の鴻池家に着くと、善六は行(ぎょう)に入ります。
21日目の夢枕に、神奈川宿のお稲荷さまが・・・。
「お前のせいで『ご利益がある』と評判が立ってしまった」と。
そのお礼として「この屋敷の柱の下に観音像が埋もれているので、掘り出してあがめれば娘の病気は治る」と教えられました。
善六は三度目のそろばん占い、観音像は見つかり、娘の病気も全快。
鴻池家からのお礼は、馬喰町に旅籠屋を建ててもらうこととしました。
善六、今までとは違う生活、「けた違い」、それもそのはず、『そろばん占い』でございますから・・・
新川大神宮
新川1-8-17
前回ご紹介の「大栄稲荷神社」から申し上げますと・・・
永代通りに出て、霊岸橋から見て1つ目の信号「新川1丁目」を渡り70m先左折、100m先左側にあります。
茅場町駅からは・・・
永代通りを行き、霊岸橋を渡り、「新川1丁目」交差点を右折、70m先左折、100m先左側。