銀造

夜半亭 与謝蕪村居住地跡 芭蕉、蕪村、一茶

 夜半亭・与謝蕪村居住地跡の説明碑は、日本橋室町4-5、本町4-2の中央通りを一歩入ったところに設置されています。 隣り合うように、「石町時の鐘」の説明碑も設置されています。

俳句と言えば、有名な俳諧師では松尾芭蕉(正保元年1644年伊賀国上野赤坂生まれ)、与謝蕪村(享保元年1716年大坂郊外の毛馬村出身)、小林一茶(宝暦13年1763年信濃国上水内郡柏原村生まれ)の三人が有名です。

江戸俳句では、松尾芭蕉が「蕉風」というスタイルを確立しました。 芭蕉は、俳句の宗匠として自立する時に、日本橋小田原町の寄宿先から深川の庵に転居する時に、「発句なり松尾桃青宿の春」と詠んでいます。

 与謝蕪村は、松尾芭蕉の72年ほど後に生まれ、芭蕉が記した「おくの細道」などの紀行文に憧れ、俳句の道を志し、22歳の時に、夜半亭宋阿(早野巴人)に師事します。元丈二年(1737)、22歳の時でした。

 

蕪村の生涯と詠んだ句

  夜半亭宋阿(早野巴人)の元で、修行をしていて、「宰町」の俳号で、「夜半亭歳旦帖」に入集。 

寛保2年(1742)に、師匠が他界し、夜半亭一門は解散、蕪村は常総地方、東北地方を行脚する旅に出ました。27歳の時でした。延享元年(1744)、初めて「蕪村」と号しました。36歳になった蕪村は、京都に上り、宋阿の門弟たちの下に身を寄せ、画家としての名前も有名になり、画の収入で生計を立てながら、京の知識人たちと積極的に交際したとのことで、池大雅、円山応挙、伊藤若冲らとは四条通での住まいが近かったので、懇意にしていたと思われます。

 宝暦4年(1754)、丹後与謝を訪れ、三年間あまり滞在しました。宝暦10年(1760)、還俗し、与謝姓を名乗り、この頃に結婚(45歳)。

妻を迎え、画家としても一定の評価を得て、生活の見通しが立てられるようになり、名句が増えてきます。

「春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな」

蕪村の絵は重要文化財に指定されたほど

 明治期を代表する正岡子規は、蕪村の俳句は「絵画的実感がある」と最大級の賛辞を贈ったそうです。

そのうちの有名な句は、芭蕉が旅した最上川を詠んだ句、

「五月雨や大河を前に家二軒」。 流れの速い最上川のほとりに、家が二軒。 氾濫したら、流されそうでと心配していそうな、読み手の気持ちも伝わってきます。

そして、重要文化財に指定されている絵は、

「富嶽列松図」。愛知県美術館・木村定三コレクション蔵。

「新緑杜鵑図」(ほととぎすが、新緑の生い茂る木々の上を悠々と飛んでいく姿)。文化庁保管。

「蘇鉄図屏風」。讃岐妙法寺蔵。

次は、小林一茶の江戸における足跡を探してみたいと思います。