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向井将監が繋ぐ、石碑「将監の鼻」が江戸川区葛西にあった!

江戸川区臨海町3丁目(旧南葛西堀江)に「将監の鼻」という石碑があります。その石碑はかって岬で「葛西海岸堤防」があった場所に設置され、江戸幕府の船の管理や海上巡視を担う御船手頭として活躍した向井忠勝屋敷や官位である左近衛将監名がついた左近川があったことに由来すると古老らの話で伝わっています。

当時、葛西海岸堤防の海側は江戸からの距離の近さもあり、漁港や幕府の直轄領(小松川御鷹場)がありました。江戸初期1万2千石だった石高は湿地帯や河口の中州、砂地を埋め立てて新田開発が進み、文政年間には2万石を超えるまでに増加しました。以前は新田という地名もあり、現在は新田小学校に残されています。漁業が盛んだっただけでなく、江戸中期には江戸への近郊野菜の供給地としても栄えていたそうです。

中央区にも向井将監のゆかりの将監橋・海賊橋を改名した「海運橋」「かいうんばしの親柱」や「将監屋敷」等、多くの足跡が残されています。

葛西とのつながりも解明してみたいと思います。

将監の鼻地図-陸地側のぐっと入り込んだ位置が左近川河口、東京湾最奥「おへそ」の位置関係

将監の鼻地図-陸地側のぐっと入り込んだ位置が左近川河口、東京湾最奥「おへそ」の位置関係 向井将監が繋ぐ、石碑「将監の鼻」が江戸川区葛西にあった!

が「将監の鼻」1972昭和47年当時の葛西沖です。本当に鼻の形に見えます。昔から東京湾の玄関口として知られていたようです。

東京湾に面した河口かつ港でした。1966昭和41年の地図には新漁港と表記されていました。「べか舟」が多数停泊していたそうです。

近年まで葛西海岸は遠浅の海岸をなし、海の宝庫として沖にはのりのひび(竹や木の枝)が立ち並び、あさりやしじみを採る舟が軒を競い、春には潮干狩り、夏は海水浴ができたそうです。

葛西海岸堤防の海には約178ヘクタールの民有地があり、葦が茂った原っぱで、茅葺屋根の材料として使われていました。戦後、工場の地下水汲み上げによる地盤沈下で徐々に海中ヘ沈んでいきました。

1972昭和47年から海の埋め立てが始まり、江戸川区の3分の1に当たる1270ヘクタールの清新町(球技場・陸上競技場)・都立葛西臨海公園・都立臨海水族館・中央卸売市場葛西市場・下水道局葛西水再生センター等施設や臨海都市計画によって豊かな自然・都市施設(道路・公園・上下水道・公共施設)が整備されました。現在、2018平成30年ラムサール条約湿地登録の葛西臨海公園・2020東京オリンピック会場カヌースラロームセンターも完成しています。

葛西・左近川(さこんがわ)「海岸水門」

葛西・左近川(さこんがわ)「海岸水門」 向井将監が繋ぐ、石碑「将監の鼻」が江戸川区葛西にあった!
 向井将監が繋ぐ、石碑「将監の鼻」が江戸川区葛西にあった!

葛西の南、堀江の地には荒川・中川から江戸川浦安市を結んでいる●(上地図参照)左近川(が流れ、左近橋が架かる付近の一帯に「海岸水門」があります。水害から区民を守るために、昭和32年4月に設置されました。

旧堤防(現・都道450号線は海岸線の原形が見事に継承されています)の「海岸水門」は道路を挟んだ「左近川」側に残る「海岸水門橋」に遺構の1部が現存しています。

江戸時代に進められた新田開発により形成されたもので、葛西から浦安にかけての海は「葛西浦」と称し、三枚洲と呼ばれる有数の干潟が形成されていました。遠浅さの海岸では貝や海苔の養殖が行われていました。

この堀江の地は、千葉県行徳の所領(飛び地)1895年に東京府南葛飾郡葛西村に編入された境界線でした。

「東京都市地図」明治では「左近川」が」「江戸川」の表記になっていて県境の線が描かれていました(帝都地形図の解説文では、古江戸川と記載されています。江戸川の分流)

江戸川区新川は江戸から塩の道といわれる重要な水路とで有名ですが、新川から左近川にも水路として繋がっていました。堀江の将監屋敷は江戸から近く、様々な物資を運ぶ重要なポイント地点だったのかもしれません。

向井将監の軌跡 かいうんはしの親柱・海運橋(将監橋・海賊橋)親柱説明文

向井将監の軌跡 かいうんはしの親柱・海運橋(将監橋・海賊橋)親柱説明文 向井将監が繋ぐ、石碑「将監の鼻」が江戸川区葛西にあった!

1582年6月5日生 1641年60歳没 

向井正綱の子であり、安土桃山時代(武田氏・徳川家)水軍の武将・江戸時代(旗本)

向井将監忠勝は大坂の冬の陣で大坂湾の制海権を押さえる活躍をしました。家康・秀忠の信頼は厚く、1613慶長16年5月イスパニア使節として来日したピスカイノは『金銀島探検報告』の中で、秀忠は狩猟その他で外出する時は、よく忠勝を随行させ、そのため忠勝は他の家来からの羨望を受け、特に人質の大名子息等は身分の卑しいことなどを中傷したようですが、思慮ある忠勝父子は共によく耐え、課せられた仕事に対して忠義をもって家康・秀忠に尽くしたと言われています。ピスカイノ一行を接待し、必需品を調達したのも忠勝であり、その采配ぶりは秀忠から賞されました。

向井家でただ唯一の6千石を受領した忠勝は上総国望陀院郡三ヶ村・周隼郡太田村・相模国三浦郡26ヶ村の詳細は不明です。新田開発や『新編相模国風土起稿』112巻によれば1638寛永15年に忠勝の手によって総検地が実地されたようです。これによって増えた領地も合わせて6千6石6斗余りに増加しました。

 向井将監が繋ぐ、石碑「将監の鼻」が江戸川区葛西にあった!

亀島橋

亀島橋 向井将監が繋ぐ、石碑「将監の鼻」が江戸川区葛西にあった!

案内版に御船手組(将監河岸)御船手組屋敷の記載

案内版に御船手組(将監河岸)御船手組屋敷の記載 向井将監が繋ぐ、石碑「将監の鼻」が江戸川区葛西にあった!

武州豊嶋郡寛永江戸庄図屛風「向井将監屋敷」1640寛永9年当時のもの

「向井将監屋敷」(国立歴史民俗博物館所蔵品)の画像はこちらから

向井将監は官位で初代忠勝(法名は陽岳寺殿天海祐居士)は1641寛永18年に60歳で死去し、上野の寛永寺支院本覚寺に埋葬、明治17年2月向井正養が江東区深川の1637寛永14年定勝開基である臨済宗妙心寺長光山陽岳寺に移葬しています。

1601慶長6年 500石拝領ー2代将軍秀忠より相模・上総国内と御召船奉行下総葛飾郡堀江(現在の浦和とも言われている)

1615慶長20年500石加増ー大阪湾制海権取得の功績により1000石

1617天和3年2000石加増ー3000石

1624寛永元年父遺領相続を合わせ5000石

1625寛永2年加増により合わせて6000石相模・上総の両国  大身の旗本となる。

世襲将監を号した初代 忠勝 2代 正方(忠勝五男) 3代 正(政)盛 4代 正員 5代 政使 -代 政香 -代 正直 -代 正道 -代 正義 (6代以降は記載せず)

本邸は采地である相模郡の三崎法蔵山

江戸役宅ー上屋敷は楓川と日本橋川が合流する東詰になり、船入りと水路を備えた角地にあり、その東に臨海して向井将監忠勝屋敷と右衛門忠宗(忠勝の次男)屋敷が隣接して建っていました。関船が繋船され、水軍の屋敷に相応しい造りになっています(中央区日本橋1-209・日本橋兜町39)

初代忠勝1641年死後、1717享保2年1721享保6年3月11日4代正員(まさかず)の時、焼失しました。

将監下屋敷は新堀の日本橋箱崎で将監番所は1631寛永7年霊岸島八丁堀屋敷を新たに拝領し、この番所に船手組屋敷が置かれ、江戸城を守護する機能を果たしていました。

1863文久3年再刻の尾張屋清七版「日本橋南之絵図」の左下に「御船手向井将監」と記載されています。屋敷の南を流れるのが、現亀島川、東を流れるのが現隅田川です。

亀島川沿いの河岸は「将監河岸」(現新川1丁目)と呼ばれ、明治末期まで正式な地名となっていました。

屋敷はその後、御召船奉行として船路を隅田川から荒川・中川を渡って中央区浜町2.3丁目、深川霊厳島、江東区新大橋、本所石原、江戸川区南葛西(浦安市・下総国下総郡堀江ともいわれている)と陣が移されたようです。

「安宅丸(あたけまる)絵図」別名「天下丸」

「安宅丸(あたけまる)絵図」別名「天下丸」 向井将監が繋ぐ、石碑「将監の鼻」が江戸川区葛西にあった!

「安宅丸絵図」東京国立博物館所蔵

1632寛永9年3代将軍徳川家光が向井将監に命じて新造した軍艦形式の御座船で、絵図の幟に描かれた「む」の字は、向井の頭文字で向井将監の旗印を葵の御紋と並べて揚げてよいという破格の知遇を受けました。

1635寛永12年鎖国令が家光によって発布されると、同時に軍船は華麗に飾り立てたお上の威光のシンボル将軍御座船となり、諸大名を船遊びの招待するものとなりました。典礼係となり、海の侍の誇りを失った忠勝は、6年後に1641寛永18年60歳で失意の中で亡くなりました。

上屋敷から日本橋川を向岸は、江東区でかって安宅町と称したが、現在新大橋1丁目と改称され、新大橋(元禄6年創設)河岸の『御船蔵』がありました。1640寛永9年に幕府は軍船安宅丸を伊豆から回航、格納し、1618天和2年に解体されました。明治まで幕府艦船の格納庫として使用したお船蔵でした。

忠勝は建造した官船安宅丸、御座船天地丸、大龍丸等を預かり幕府御船蔵に係留し、管掌していました。将監屋敷は船蔵を守る役職をしっかり果たしていたと思われます。

安宅丸は370年振りに、2018平成30年東京クルーズの「御座船 安宅丸」として蘇っております。

1648慶安元年松本村地水帳に「小松川将監屋敷跡」という記載がありました。1641年に忠勝死去後の記録しか残っていませんので、古文書がない状態では江戸川区の「将監の鼻」は忠勝と断定はできません。しかし、忠勝と結びつける左近川と水路の繋がり、下総国への要路としての位置を考えると忠勝であってほしいという気持ちがより強まってきました。

参照文献  広報「えどがわ」-葛西沖 2021年1月15日№1971号・江戸川区中学副読本

      ウィキペディア

       「見知らぬ海へ」陸慶一郎 講談社文庫

      臨済宗妙心寺派長光山陽岳寺ホームページ

       「向井将監に学ぶ」元読売新聞記者 石川氏

       「戦国期向井水軍の足跡を辿って」鈴木かほる氏