ちょっと気になる中央区の神社 ①
~ 波除神社 ~
リモートで、愛する中央区をナビゲートします、rosemary sea です。
「茅場町駅・八丁堀駅周辺の静かな佇まいの神社」シリーズ終了に続きまして、今回より新シリーズ「ちょっと気になる中央区の神社」をスタートします。
第1回の今回は、築地の波除神社(なみよけじんじゃ:波除稲荷神社とも)をご紹介します。
それでは・・・
御由緒
波除稲荷神社の創建は、万治年間(1658年~1661年)と伝えられています。
築地一帯の埋立てが進められた万治年間、波浪により工事が難航を極めた際、海中に漂う稲荷明神の像を祀ったところ波浪が治まり、埋立て工事が無事完了したと言われています。
「波除」という尊称はこの故事に由来するもので、江戸時代以来、航海安全や災難除け・厄除けなどの神として人々に篤く信仰されてきました。
波除稲荷神社の祭りは、江戸時代から獅子祭りとして知られ、祭りの際には数多くの獅子頭が町をなり歩きました。
獅子頭の多くは震災・戦災などで失われましたが、現存する嘉永元年(1848年)製作の獅子頭一対(中央区民文化財)は社宝として本殿に安置されています。
なお、現在でも毎年6月の「つきじ獅子祭」では、「厄除け天井獅子」や「弁才天お歯黒獅子」が巡行されることがあり、獅子祭りの伝統を伝えています。
また、本殿前にある天水鉢二基(中央区民文化財)は、尾張藩船からの積荷の陸揚げに従事した小揚(こあげ)たちが天保9年(1838年)に奉納したものです。
江戸時代、旧築地市場の南半分には尾張徳川家の蔵屋敷があり、米穀や尾張の特産品などが運び込まれていました。
船の無事を祈って奉納したこの天水鉢は、波除稲荷神社への信仰を伝える貴重な文化財です。
ー 中央区教育委員会 説明板 (一部改編) ー
今から350年程前、この築地一帯は一面の海でした。
江戸開府(1603年)時の慶長江戸絵図には、今の日比谷のお堀辺りまで汐入を描き、八重洲の海岸に船の役所が見えます。
開府前より始まった江戸城西丸の増築に掘られた、お堀の揚げ土を以って日比谷入江から埋め始められた、江戸東南海面埋立は、その後全国の諸侯70家に千石に一人の人夫を出させ、後にはその埋立の役員の名をとり、尾張町、加賀町等と名附けられました。
そして70年の後、明暦の大火の後に4代将軍家綱公が手がけた最後の埋立の工事困難を極めたのが、この築地海面でした。
堤防を築いても築いても激波にさらわれてしまうのです。
或る夜の事、海面を光りを放って漂うものがあり、人々は不思議に思って船を出してみると、それは立派な稲荷大神の御神体でした。
皆は畏れて、早速現在の地に社殿を作りお祀りして、皆で盛大なお祭をしました。
ところがそれからというものは、波風がピタリとおさまり、工事はやすやすと進み埋立も終了致しました。
万治2年(1659年)の事です。
人々は、その御神徳のあらたかさに驚き、稲荷大神に『波除』の尊称を奉り、また雲を従える<龍>、風を従える<虎>、一声で万物を威伏させる<獅子>の巨大な頭が数体奉納され、これを担いで回ったのが祭礼『つきじ獅子祭』の始まりです。
それ以来今に至るまで、「災難を除き、波を乗り切る」波除稲荷様として、災難除・厄除・商売繫盛・工事安全等の御神徳に崇敬が厚いのであります。
その御神徳はその後も益々大きく、当時辺境の地であった築地も次第次第に開け、現在の如く繁華街となったのであります。
ー 波除神社 ホームページ より ー
※ 社務所にも、この文が掲出されています。
獅子殿
境内右側にあります。
「厄除天井獅子」が安置されています。
摂社 弁財天社
獅子殿と向かい合って、境内左側にあります。
「お歯黒獅子」が収められています。
この他、ご本社裏には、中央区民文化財の獅子頭一対と青龍・白虎がお飾りされているそうです。
また、神社大神輿も安置されているようです。
玉子塚
境内左側、摂社 弁財天社の右隣りにあります。
1993年に、東京鶏卵加工業組合さんが、その創立30周年を記念して建立されたそうです。
使用された玉子への供養と、玉子が優れた食材であることを人々に顕彰する目的のため、とのこと。
台座にはロズマリがお伺いして記事も書いております「大定(だいさだ)」さんの銘もございます。
奥から・・・
昆布塚・おきつね様・蛤(はまぐり)石・活魚塚・鮟鱇(あんこう)塚・海老塚・すし塚
境内左側、魚霊供養のための塚などが並んでいます。
手前の「すし塚」は梅の花に隠れています。
この手前に末社、更にその手前に先ほどご紹介しました「玉子塚」があります。
奉納 吉野家 碑
ここ築地の地に、牛丼の吉野家の創業店がありました。
吉野家の歴史は、かつて栄えていた日本橋の魚河岸で明治32年に開業したのが始まりです。
屋号は、創業者・松田栄吉の出身地である大坂・吉野町より名づけられたと伝えられています。
その後、関東大震災の影響により、大正15年、魚河岸とともにこの地に移転いたしました。
東京大空襲によって店舗は焼失しましたが、終戦後、すぐに屋台で営業を再開。
そして昭和34年、「築地1号店」を開店したのです。
当初、具材には季節の旬な食材と豆腐なども盛り込まれていましたが、市場で働く人達が牛丼を注文するのは、牛肉が食べたいからなのです。
2代目社長、松田瑞穂は、そんな想いに応えてメニューを改良。
より多くの牛肉と、味わいを深めるための玉ねぎだけを使った、シンプルな牛丼を生み出しました。
この牛丼は市場で大いに愛され、またたく間に各地へとひろがり、日本人のお腹を満たす国民食となっていったのです。
平成28年、再び市場の移転にともない、「築地1号店」も移転することになりました。
この地で永きにわたり多くの方々に、ご愛顧いただいてまいりました「はやい、うまい、やすい」吉野家の牛丼は、まさにこの土地で育まれた味なのです。
ー 併設されています説明板より ー
境内右側、獅子殿の右隣りにあります。
このまた右には、奉納魚がし碑、奉納弁財天魚がし碑があります。
今回も落語をご披露させていただきます。第38回です。
『築地』と言いますと『魚』、このつながりでは「権助魚(ごんすけざかな)」、「芝浜」、「薬缶(やかん)」、「てれすこ」と連想できます。
権助魚は2021年1月21日、芝浜は2020年7月9日にご披露済ですので、今回は「てれすこ」をチョイスしました。
「古典」とも言えず、「江戸がもと」というかたちでもありませんが、・・・。
<事前確認コーナー>
火物断ち(ひものだち)・・・
「火の物断ち」とも言い、願掛けとして火を通した食べ物を断つこと。
「てれすこ」
ある漁村で珍しい魚がとれました。漁師も名前がわかりません。
奉行所に聞きに行きますが、もとより役人も知る由もありません。
そこで「この魚の名を知る者には百両をつかわす」と高札を立てます。
多度屋茂兵衛(たどやもへえ)という商人、「これは『てれすこ』という魚」と申し出ます。
ウソか本当か確かめるすべもなく、百両は茂兵衛に渡されます。
お奉行、一計を案じます。
この魚を干物にして、「この魚の名を知る者には百両をつかわす」と改めて高札を出します。
改めて茂兵衛「これは『ステレンキョウ』と申します」と。
茂兵衛は牢屋につながれてしまいます。
打ち首の刑が決まった茂兵衛、最後の願いで妻子と会えることに。
乳飲み子を抱えた女房、見ればやせ細った姿、聞けば『火物断ち』をしていると。
茂兵衛「この子が大きくなっても、決してイカの干したものをスルメと言わせないでくれ」と。
これを聞いたお奉行、「言い訳相立った、無罪を申し渡す」と。
スルメ1枚で、首の皮がつながりました。
それもそのはず、おかみさんが『火物(=干物)断ち』をしましたから。