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ちょっと気になる中央区の神社 ⑩
 ~ 宝珠稲荷神社 ~

リモートで、愛する中央区をナビゲートします、rosemary  sea  です。

 

ちょっと気になる中央区の神社シリーズ、第10回の今回は、宝珠稲荷神社(ほうじゅいなりじんじゃ)をご紹介させていただきます。

こちらも「銀座八丁神社めぐり」の1社です。

それでは・・・

 

御由緒

御由緒 ちょっと気になる中央区の神社 ⑩
 ~ 宝珠稲荷神社 ~

宝珠稲荷神社は1615年の頃三河の国深溝(ふこうず)の領主板倉内膳匠(ないぜんのかみ:内膳正とも)重昌の江戸屋敷内に家内安全火除の神として祭神せられたるものなり。

内膳匠重昌は京都所司代及び江戸町奉行として令名高かりし板倉勝重の次男として1588年後陽成天皇(ごようぜいてんのう:第107代)の御代天正13年の頃の生れである。

重昌は武勇に富み敬神の念厚く大阪冬の陣島原の乱等に追討軍令として鎭台を務めたるも不幸にして島原の乱に於いて年令50才にして戦死したるものなり。

時の将軍は家光であり第110代後光明天皇(ごこうみょうてんのう)の御代である。

内膳匠の兄周防の守重宗は下総の国関宿の城主なり。

年経て1760年宝暦年間岩見の国津和野の城主亀井家に譲渡せられたるものなり。

明治の維新に於ける亀井滋玄の功績は大鼓稲荷と共に有名なり。

更に大正7年岡山の岡崎家に売却されたるも爾来本神社は敷地と共に地元木挽町(こびきちょう)3丁目氏子に寄進せられ1950年地元氏子有志相計り隣接地を買収し社殿及び社務所を建設して今日に至るものなり。

 

※ 兄の重宗は、父の勝重の「京都所司代」の任を継いでいます。

 

 ちょっと気になる中央区の神社 ⑩
 ~ 宝珠稲荷神社 ~

福島県福島市杉妻町にあります板倉神社、こちらは前出の板倉重昌を祀った神社です。

 

板倉神社とは・・・

福島藩主板倉氏の祖である板倉重昌、重矩(しげのり:重昌の長男)の二人の霊を祀るために、11代(福島板倉藩8代藩主)勝長が、寛政4年(1792年)に江戸藩邸内に開いた。

その後、文化2年(1805年)に、福島城本丸内に安置した。

明治2年(1869年)に、三河への転封で一時三河へ遷座されたが、明治15年(1882年)に旧領民の懇請で再遷座、旧藩士らが募金を募り、現在の場所(旧福島城内紅葉山)へ再建した。

(板倉神社 ホームページより)

 

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 ~ 宝珠稲荷神社 ~

板倉重昌・・・

家康に幼少から仕え、方広寺「鐘銘事件」においては問題の鐘銘箇所を指摘、家康の使いとなり、また「大坂冬の陣」の講和に際しては、軍師となって活躍。

のち、三河深溝1万5千石を賜り、板倉家初代となる。

寛永14年(1637年)の島原の乱の鎮圧に出陣。

上使として、松倉、細川、鍋島、立花らの九州諸大名を指揮したが、原城を落とすことができず、幕府は松平信綱を派遣して軍の立て直しを図ろうとした。

この幕府の処置を恥じ、信綱到着前に落城させようと翌15年1月1日総攻撃をかけたが、玉砕的な戦死を遂げた。享年51歳。

(辞世)

     新玉(あらたま)の 

   歳に任せて散る花の

          名のみ残して

             先駆けと知れ

(板倉神社 ホームページより)

(別: 新玉の 年にまかせて咲く花の 名のみ残らば 魁(さきがけ)と知れ)

 

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 ~ 宝珠稲荷神社 ~

板倉重昌、父の勝重と兄の重宗との逸話・・・

父勝重が、「ある訴訟の是非について答えよ」と言った時に、重昌はその場で返答しました。

ところが兄の重宗は一日の猶予を求めたうえ、翌日に弟と同じ結論を答えました。

周りの者たちは「弟の重昌の方が器量が上」、と評価しました。

しかし父の勝重は「重宗は重昌同様に結論を早く出していた、ただ慎重を期すためにあのような振る舞いをしただけであり、重宗の方が器量が上である」と評したといいます。

(名将言行録【めいしょうげんこうろく】より)

 

・・・勝重・重宗にはこの他にも、後任の所司代・牧野親成も含めた逸話が別に「名将言行録」に、そして「徳川実記」「責而話草(せめてわぐさ:勢免天話草とも)」に著されています。

 

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 ~ 宝珠稲荷神社 ~

今回も江戸古典落語をご披露させていただきます。

第47回となりました。

回を重ねるごとに、題材選びは選択困難な状況になっております。

「宝珠稲荷」の「珠」は「擬宝珠(ぎぼし)」に結びつくところですが、2020年9月26日「人形町駅から行ける、静かな佇まいの神社 NO.25」中の第17回にてご披露しています。

また、2020年9月7日「人形町駅から・・・NO.20」中の第12回「三方一両損」は、板倉勝重・重宗父子の京都所司代在職中における大要を記した「板倉政要(いたくらせいよう)」の中に書かれた内容を落語にしたもの、と言われています。

 

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 ~ 宝珠稲荷神社 ~

・・・前置きが長くなりましたようです。

結局のところ、今回は「掛け取り」をご紹介することとしました。

板倉勝重の領地「三河」を伝手(つて)に、三河万歳を題材としていることで決定しました。

<事前確認コーナー>

掛け取り・・・

つけの回収のこと。

菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)・・・

2020年2月9日「明治座3月花形歌舞伎」の記事をご覧ください。

 

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「掛け取り」

 

大晦日です。

掛け買いの借金がたまった八五郎、当然支払えるあてなどありません。

そこで掛け取りの好きなもので言い訳して、けむに巻いた上で追い返してしまおう、と作戦を練ります。

 

まずは大家、家賃がたまっています。

大家は狂歌に凝っています、ついては即興の狂歌攻め。

「貧乏の『ぼう(棒)』も次第に長くなり 振り回されぬ年の暮れかな」

「貧乏をすれど我が家に風情あり 質の流れに借金の山」

などの狂歌を並べます。

すると大家は感じ入って「貸しはやる借りは取られる世の中に 何とて大家つれなかるらん」と詠み、返済猶予を約束してしまいます。

(歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」に登場する「梅は飛び桜は枯るる世の中に 何とて松のつれなかるらん」をもじっています。)

 

次は魚屋の金さん、喧嘩っ早いことで有名です。「借金を返してもらうまでは、てこでも動かない」と。

それには「金が入るまでは、そこに何十年でも座っていろ」と挑発、押し問答の末、借金を棒引きさせます。

 

酒屋の番頭、芝居好き。

「お掛け取り様の、お入いーりー」と叫び、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」の「上使」に見立てて招き入れます。

重ねて「雪晴るる比良の高嶺の夕間暮れ 花の盛りを過ぎし頃かな」と、近江八景を組み込んだ短歌を詠みます。

言い訳をし続け、ついに「あの石山の秋の月・・・三井寺の鐘を合図に」と、来年の9月まで払いを延期させます。

 

最後は三河屋の主人です。

その相手を三河万歳の才蔵に見立て、三河万歳の太夫の調子で「待っちゃろか、待っっちゃろかと申さあば、ひと月ならひと月目、ふた月ならふた月目、こけらあじゃ、どうだんべえ」と、はやします。

掛け合いに持ち込み、最後はあきれた主人、「ならばいつ払えるんだ」と。

「ああら、ひゃあく万年もぉ、過ぎたなら」

 

近隣史跡のご紹介
明治会堂跡

近隣史跡のご紹介
明治会堂跡 ちょっと気になる中央区の神社 ⑩
 ~ 宝珠稲荷神社 ~

銀座3-14

 

明治会堂は、明治14年(1881年)、福沢諭吉の発案により建設された演説会場です。

瓦葺き木造2階建て、建坪約620㎡の疑洋風建築で、福沢の親戚である藤本寿吉(ふじもと ひさきち)により設計されました。

当時の演説会場としては、福沢の建てた三田演説館など若干の施設が存在しましたが、規模などの面から、多くの演説は本来演説会場ではない貸席、劇場、料亭などで行われていました。

これらに代わる施設の整った演説会場として明治会堂は建設されました。

(説明版内の)錦絵「明治会堂之図」の説明文に、「会場の広間は3千人を容(い)れ、食堂には2百人の席を設(し)くべし、講義室あり事務室あり結構至らざる所なく実に東京第一の会堂なり」とあり、当時としては会食もできる東京髄一の演説会場で、政談演説をはじめ、各種演説・行事が頻繁に行われました。

明治15年末に福沢の所有から農商務省の手に渡り、明治17年には厚生館と改称されて使用されましたが、明治23年(1890年)に民間に払い下げられた後、大正12年(1923年)の関東大震災で焼失しました。

 

※ 更に、「専修大学発祥の地」も隣りにあります。

 

宝珠稲荷神社

宝珠稲荷神社 ちょっと気になる中央区の神社 ⑩
 ~ 宝珠稲荷神社 ~

銀座3-14-15

東京メトロ日比谷線 東銀座駅 至近

歌舞伎座の裏、「木挽町通り」の中央、歌舞伎座正面入口に向かって右側になります。