【遠足シリーズ第39弾】三浦按針関連史跡を訪ねて
こんにちは。アクティブ特派員のHanes(ハネス)です。
コロナ禍で自由に海外旅行をすることが難しい中、英国留学中にお世話になった方々に手紙を書く機会が増えました。
そうして英国に思いを馳せたある日、徳川家康の「外交顧問」として活躍し、日本橋に屋敷を構えた英国人のことを思い出しました。
それが、三浦按針の日本名で知られる「青い目のサムライ」ことウイリアム・アダムスです。
ペリーが黒船で来航したり、お雇い外国人が活躍したりするよりも前に、日本で将軍の信頼を得ていた外国人がいたことはやや意外かもしれませんね。
そんな彼は中央区にゆかりのある人物で、日本橋室町1丁目には彼の名を冠した「按針通り」があり、その通り沿いの建物の間には「史蹟 三浦按針屋敷跡」の碑があり、彼の功績について知ることができます。
按針通り(日本橋室町1丁目、2022年4月撮影)
その碑には、アダムスが1564年に英国のケント州で生まれ、1600年に渡来し、徳川家康に迎えられてこの地(現・日本橋室町1丁目)に屋敷を拝領したこと、造船・砲術・地理・数学等で業績を挙げ、家康・秀忠の外交、特に通商の顧問となり、日英貿易等に貢献したことが記されています。*1
さらに、彼の日本名にちなみ、この地(現・日本橋室町1丁目)が昭和初めまで按針町と呼ばれていたとも書かれています。
史蹟 三浦按針屋敷跡」の碑(日本橋室町1丁目、2022年4月撮影)
ここで気になるのが、なぜアダムスが三浦按針と呼ばれるようになったのか。
かつては町名に採用され、今では通り名として残る「按針」。
現在の中央区にも関係があることから、特派員としてその由来を知らずにはいられません!
ではここで、史蹟の碑や参考文献・ウェブサイトでの説明を見てみましょう。
・日本名の三浦按針は、相模国三浦逸見に領地を有し、もと航海長であったことに由来。(史跡の碑)
・姓の三浦は領地に由来し、按針は水先案内人です。(東京都教育委員会)
・領地は逸見(現・横須賀市)に位置していた。この地名にちなんで、アダムスは日本で「三浦按針」と呼ばれるようになった。「按針」は当時一般的に「舵手」を指す用語であった。(クレインス,p. 162)
つまり、姓は領地の三浦、名は彼の職業ともいえる「航海長」、「水先案内人」、「舵手」を意味する按針に由来しているのですね。*2
こうしてアダムスの日本名の由来を知ることで、彼がどこに領地を持ち、どのようなことをしていた人物なのかが見えてきました。
これまでは、「按針=家康の外交顧問」としてのイメージが強かったのですが、職業が日本名にもなるほど航海や船に大いに関係していたようです。
かつてアダムスが屋敷を構えていた現・日本橋室町1丁目は日本橋のすぐ近くで、当時は商人が多く住む活気あふれるエリアでした。
さらに、日本橋魚河岸もほど近く、賑やかな場所だったのではないでしょうか。
そんな日本橋の屋敷や前述の逸見の領地に対するアダムスの思いは、彼が残した手紙から知ることができます。
この知行について、アダムスは未知の友人あての手紙の中で、苦労が報われたと書いています。
「これはイギリスの封建貴族の身分に匹敵するものである」と説明し、「これまで日本で外国人に与えられたことがなかったことである」と誇らしげに付け加えています。(クレインス,pp. 162-163)
ここからは、アダムスが如何に家康から頼りにされ、如何に重要な存在であったかが読み取れます。
しかし、頼りにされたのは、外交、通商分野だけではなかったのです。
伊東市の按針メモリアルパークにて
伊東港を望む場所に設けられた按針メモリアルパークには、「日本初 洋式帆船建造の地」の碑、彫刻家・重岡健治氏による三浦按針の胸像と洋式帆船サン・ブェナ・ヴェンツーラ号の像があります。
ここは、家康の依頼でアダムスが造船に取り組んだ場所として知られています。
按針メモリアルパーク(静岡県伊東市、2022年4月撮影)
ある時、アダムスが船大工親方のところで徒弟奉公をしていたことがあると聞いた家康がアダムスを呼び出し、小型船を造るように頼んだそうです。
謙遜するアダムスに、「やってみればいい。うまくできなくてもかまわない」と家康は励ましの言葉を投げかけたのだとか。
そこでアダムスは家康の要請を引き受け、リーフデ号の元乗組員たちを集め、大勢の日本人の大工の助けを得て、造船に取りかかったのです。(クレインス,pp. 144-146)
ウイリアム・アダムスの記念碑(伊東市、2022年4月撮影)
『慶長見聞集』によると、浜辺に川が流れ込むところが造船に適した地形であることから、伊豆国伊東が選ばれました。
この造船は、当時の日本の史料に記録されるほどの大事業だったようです!
造ったのは80トンの船で、300トンのリーフデ号と比べるととても小型で約30人乗り。
造船の様子を描いたレリーフ(伊東市、2022年4月撮影)
しかし船の大きさ以前に、家康がアダムスに造船を命じた背景には、日本の船大工への造船技術の伝達という目的があったのではないかと推測されています。
この時に造った船でアダムスは浅草川(隅田川)の入り江に停泊したこともあり、家康はわざわざ船を見物しに来ることもあったそうです。
船を視察した家康は大変満足し、これを機にアダムスは家康に大いに尊重されるようになったと言われています。(クレインス,pp. 144-146)
造船の様子を描いたレリーフ(伊東市、2022年4月撮影)
アダムスの確かな造船技術は、家康の心をつかんだのですね。
前述の通り、アダムスは江戸城にほど近い日本橋に屋敷を構えるのですが、残念ながら、今回の参考文献・ウェブサイトからは日本橋の屋敷での生活の実態までは分かりませんでした。
しかし、彼が日本人の女性と結婚し、2人の子どもをもうけていることは記録に残っています。
結婚相手については諸説あり、詳細は謎に包まれたままですが、この結婚相手には、なかば婚約していた浪人がいたといいます。
そういった理由からアダムスはその浪人に拉致されたことがあり、家康がサムライを数人送って解放したなんていう話も!
この話は後に歌舞伎化され、「昔話(むかしがたり)日英同盟」(原題:Old Story of Japan-England Allieance)という題で、1906年2月24日に歌舞伎座で上演されています。
今日でいう将軍映画のようなこの歌舞伎は、英国国賓コンノート(コノート)公アーサー殿下の来日を記念しての上演でした。
この歌舞伎は観客の間に大きな感動を呼んだものの、家康に十分な役割が与えられておらず、家康がアダムスを頼る描写から、新聞での評価はいまいちだったと言います。(プロム,pp. 86-87)
今回本記事で取り上げたのは、アダムスの人生および功績の一部ですが、彼が江戸時代を生きた証は、現代の日本、そして中央区でも息づいています。
按針通りを歩く際には、ひとたび目を閉じ、アダムスが生きた時代に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
【補足】
*1: アダムスは、よく家康の「外交顧問」と表現されますが、正式にはそのような役職があったわけではないようです。(森,p. 190)
*2:実際のところ、アダムス自身や当時対日貿易を行った国々の記録には、「アンジン」との記録はなく、江戸時代の和書では、「安仁」「安信」「安針」「案仁」などとされ、「按針」ではなかったそうです。(森,p. 29)
参考文献・ウェブサイト
【参考文献】
クラウス・モンク・プロム・幡井勉 監修,下宮忠雄 訳『按針と家康:将軍に仕えたあるイギリス人の生涯』出帆新社,2006年.
フレデリック・クレインス『ウィリアム・アダムス:家康に愛された男・三浦按針』筑摩書房,2021年.
森良和『三浦按針:その生涯と時代』東京堂出版,2020年.
【参考ウェブサイト】
渋沢社史データベース「(株)歌舞伎座『歌舞伎座百年史 資料篇』(1995.04)」
https://shashi.shibusawa.or.jp/details_index.php?sid=14390&query=&ini=%E3%82%80(2022年5月1日閲覧)
東京都教育委員会「東京都文化財めぐりー三浦按針遺跡」
https://www.syougai.metro.tokyo.lg.jp/bunkazai/week/chuo/chuo08.html(2022年5月13日閲覧)
日本財団図書館「自然と文化 73号」
https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2003/00693/contents/0031.htm(2022年5月1日閲覧)
ご紹介スポット情報
三浦按針屋敷跡
住所:東京都中央区日本橋室町1-10-8