井戸端のお話

先日、世田谷区のお寺に行きました。

そのお寺はお参りする時、井戸で水を汲み上げます。

冷たい地下水で、とても気持ちがいいものです。

中央区には沢山の文化史跡と遺跡がありますが、その中に井戸に関するものが2つあります。

 井戸端のお話

一つは名水白木屋の井戸の碑です。

江戸開府前は現在の中央区のほとんどは海の中でした。埋め立てられ、町割りが進んで沢山の人々が住むようになりますが江戸庶民は飲み水に苦労します。

寅さんの啖呵売に

「角は一流デパートの赤木屋、白木屋、黒木屋さんで紅白粉(べにおしろい)つけたお姉ちゃんにください、ちょうだいでいただきますと五千は六千、六千は七千、七千は八千はくだらない代物」

と名前の出てくる白木屋さんは1967年まで日本橋の一等地にあったデパートです。

江戸時代初期、白木屋さんが呉服太物商のころの二代目大村彦五郎が私財を投じて井戸掘りを始めます。困難な工事だったけれど、一体の観音像が出たのを機に水が湧き出たと言い伝えられていると説明版に表記されています。

 井戸端のお話

もう一つが於竹大日如来井戸跡です。

山形の庄内地区に産れ江戸に奉公に出たお竹さんは気持ちの優しい誠実な人で野菜のクズや飯粒も残さずに貧困者に施した人で、勝手口に後光がさしていると評判になります。

出羽の国から訪れた行者二人が、彼女の優しさにキュンですとなり

 「羽黒山のお告げによるとお竹さんは大日如来の化身」

と言ったため江戸市中に噂が広まり人々が拝みに集まったといいます。

彼女が愛用した井戸の跡に石碑が建てられています。

 井戸端のお話

現在の中央区で井戸を沢山見ることが出来る街は佃です。

特に佃一丁目ではたくさんの井戸を目にします。ぐるっと回るだけで7基見ました。

家の中に井戸があるお宅もあり、探せばまだまだあります。多くが現役で活躍中のものです。

 

写真の井戸は、あるお宅の玄関脇にある井戸です。

おうちの方にお話しを伺うと周りの方々と共同で使うものだそうで捕ってきた魚やまな板を井戸の水で洗い流していたそうです。井戸端会議もしていたようです。

「飲料水として? さあぁてねぇー飲んだかねぇ? 記憶は無いわ」

とおっしゃってました

以前テレビの取材もうけたことがあるし写真掲載は構わないが、自分の井戸ではなく神社の持ち物だと聞いているとおっしゃるので、神社に行ってお話をお聞ききしました。対応された方に掲載を許可頂きましたが、みんなで使用してたのを知っている程度で詳細は解らないとのことでした。

ちなみに井戸の話とは関係ないのですが、この写真を撮ったお宅は偶然、私の小学校の同級生の家でした。この家に遊びにいったのは50数年前。家の造りも変わっていて気が付きませんでした。当時自分の周りにも井戸は良く見かけたので、取立ててここの井戸が記憶に残ってはいませんでした。

 井戸端のお話

隅田川を越えた佃の対岸では明石町、湊1~3丁目、入船1.2丁目、新富1~2丁目、八丁堀には目視出来る範囲に井戸を確認できませんでした。

ただ”鉄砲洲公園”に防災用井戸が出来ています。ここの井戸は災害時に生活用水として使用できるもので飲料水ではありません。

日本橋人形町と日本橋堀留町の間にある”堀留児童公園”にも井戸の形態で給水設備があります。こちらでは飲料水としても可能な井戸のようです。

 

 

 井戸端のお話

明石町と築地の間にある”あかつき公園”は災害時給水ステーションという形態です。

 

中央区防災MAPのリンクを挿入します。ご自身の周りをご確認ください。https://www.city.chuo.lg.jp/bosai/bosai/hinanjohinnanbasho/kouikihinanbasho.files/201704_bosaimap.pdf

 井戸端のお話

先ほど明石、湊~八丁堀で目視出来る範囲と書きましたが入船三丁目だけ敢えてはずしていました。

入船三丁目にはもう使用していない井戸が3基も残っています。

元々印刷や製本所の街です。長屋の形態よりは一軒家が並ぶところでした。

徐々にマンションなどの新しい建築が建てられていった街中で、何故残っているのかはわかりませんが、狭い範囲の中に古い井戸が3基も残る不思議な光景です。

写真の井戸がある、このマンションにお住まいの方に話を伺いました。

入船には戦前からおられた方です。

当時、今のマンションの隣の駐車場は空き地でそこを中心に民家が並んでいました。

そこに井戸掘りに関する職業の方が住んでいたそうです。

防災のため国が井戸掘りを奨励していたので作られた井戸とのこと。共同の持ち物だったのではとおっしゃいました。

今のマンションの土地を管理している会社にもお話を聞いてみました。

隣の駐車場のオーナーと境界線について話したそうです。ちょうど井戸の場所は双方の土地の境らしく井戸自体はどちらの所有物でもないようです。もし撤去する場合の費用負担などまだ結論は出ていないそうです。

私は小学生の時、この井戸で手を洗った記憶があります。

 

 井戸端のお話

この井戸跡は新大橋通りに面した歩道にあります。

建物との距離もかなりあり所有者不明のため、中央区役所の環境土木部を訪ねました。

この井戸跡の存在は知っているが中央区の物ではなく、また歩道は東京都の管轄とのことでした。

明石町にある東京都第一建設事務所を教えていただき行ってみました。

(この場所は以前都立の明石病院があった場所でした。50年以上前、眼科に通った病院ですね。)

都は歩道の管理をしている。基本的に物体が歩道上にある場合は使用許可の届けがあるはずと調べて貰ったが届けはありませんでした。

結局、所有者は区でも都でもないようです。

ここの斜め前に自動車の整備工場があったと記憶してます。正面はガソリンスタンドでした。どちらもバケツに水を入れ雑巾などを絞るのに井戸を使っているのを見た記憶があります。共用で使用していたのでしょうね。

 

もう一基は今駐車場になっていて、その管理者の所有だとのこと。

 

井戸が残っている理由はいろいろで不明のことも多いのですが、このブログを書くにあたり自分の記憶をたどることができました。

入船の3基の井戸は特に壊れた状態ですが、昭和の遺物が郷愁を感じさせてくれました。