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延遼館とハワイ国王カラカウア

延遼館は前都知事の時代に復活計画が持ち上がったことで話題になり、当時の特派員ブログでも「延遼館の時代展」という展覧会を含めてしばしば取り上げられていました。

 

ですので改めて詳しい説明は不要かもしれませんが、一言で言うと明治2年から明治25年までの短い間、日本の迎賓館として使用された建物です(浜離宮の中にありました)。延遼館を彩る主なキーワードとしては、元海軍施設の石室、イギリス王子アルフレート、元米大統領グラント将軍、天覧相撲・・・というところでしょうか。

 

でももう1つ、「ハワイ国王カラカウア」も是非それらのキーワードの中に加えてもらいたいと思って記事にしてみました(^^)。

 

カラカウア?誰?とか、ハワイ王国?何それ?というかたもいらっしゃるかもしれないので、ますはそのあたりからご説明させていただきます。

 

※延遼館画像はwikipedia public domain。

ハワイ王国とカラカウア王

ハワイ王国とカラカウア王 延遼館とハワイ国王カラカウア

ハワイは今でこそアメリカの州の1つですが、1795年から1893年までの約100年間、8代にわたって続いた王国でした。初代はあのカメハメハ大王、滅亡したときの女王がアロハ・オエを書いたリリウオカラニ女王です。

 

そのリリウオカラニの兄にあたるのが7代目のカラカウア王。当時、政治・軍事・経済のみならず文化や宗教まで欧米の白人勢力に牛耳られながらも、古典フラの復活などに力を注いだ「メリー・モナーク(陽気な国王)」という名でも知られています。毎年ハワイ島ヒロで開催されるフラの最高峰の祭典「メリーモナークフェスティバル」もカラカウア王を偲んで命名されたものです。

 

そのカラカウア王ですが、1881年(明治14年)、あろうことか君主自ら10か月にも及ぶ世界一周旅行に出かけたのです。その途中、日本にも12日間滞在し、東京での宿泊先が延遼館だった、というつながりです。

 

延遼館が24年間の間に出迎えた国賓は合計13名に及びますが、その中で「君主(国王とか大統領とか)」は、カラカウア王ただ一人だったということも注目です。(国賓リストの拡大は→こちら

 

※表は「延遼館の時代:p.92」より。

カラカウア王画像はwikipedia public domain.

日本滞在記

日本滞在記 延遼館とハワイ国王カラカウア

カラカウア王の世界一周は、随員だったアームストロング氏の手によって「Around the world with a king」という本にまとめられ、1904年に出版されました。それを、当時の外務省資料や膨大な新聞記事、カラカウア自身の旅行中の日記(メモ)などをもとにした詳細な解説と共に日本語訳を出版したのが荒俣宏氏でした(1995)。

 

当時のハワイは、上でも書いたよう、白人勢力に牛耳られていました。アームストロングも白人で、随員という臣下の立場でありながら、その手記は国王に対して無礼極まりない記述で満ちていたため、本人自ら「国王存命の間はとても出版できない」と書いているくらいです(^^)

 

カラカウア王が世界一周した目的は、「諸外国と連携することでハワイ王国の立場を強めたい」「白人の持ち込んだ疫病で人口激減中のハワイに移民を呼び寄せたい」ということでした。

その一環で、明治天皇に対して、日本の山階(やましな)宮(当時15歳)と、自分の姪であるカイウラニ皇女(当時5歳)との縁談を密かに提案もしたようです。(写真右は成人したカイウラニ)

 

残念ながら縁談は実現しませんでしたが、1885年から「官約移民」と言われるハワイ向け移民施策が実施されました。

 

※カイウラニ皇女の画像は wikipedia.public domain

延遼館にて

延遼館にて 延遼館とハワイ国王カラカウア

延遼館は、原著では「Enriokwan」という名前で登場します。カラカウア一行には延遼館=浜離宮全体と思われていたフシもありますが、延遼館そのものについては・・・

 

『日本風とヨーロッパ風のそれぞれ最高級の家具が備えられてる部屋がものすごくたくさんある。着替え室のテーブルには、さきほど天皇との会見のときに出されていたお菓子が山盛り。・・・この広々とした屋敷に我々たった3人しかいないわけだ。広間や寝室の前にはおおぜいの召使たちが控えてはいるが。』

 

『・・・重い正装を解いて、宮殿の中のたくさんの部屋を覗いてみた。どの部屋にも繊細で絶妙なデザインの家具や、非常に高価な薩摩焼の花瓶が置かれている』

 

・・・など、贅を尽くした内装や調度だったようです。

 

もちろん滞在中ずっと延遼館にいたわけではなく、毎日の昼食会や晩餐会の合間を縫って、浅草寺や上野公園に出かけたり、製紙工場や印刷所の見学、陸軍士官学校や海軍兵学校の視察なども行ったようです。

 

あと、当時の国賓を招待する定番が「新富座での観劇」だったようで、カラカウア王の観劇にあたっては市川団十郎・尾上菊五郎・市川左団次などのオールスター総出演で「操り三番曳」「望月」「壇浦露曳」「胡蝶舞」が演じられたとのことです。

 

おまけを2つ

おまけを2つ 延遼館とハワイ国王カラカウア

■江戸湾の謎

カラカウア王一行が日本に到着したときの描写が「We steamed up the Bay of Edo」とあります。蒸気船なのでsteamed upなんでしょうけど、それよりも「Bay of Edo」のほうが気になります。

荒俣宏氏の解説によると「江戸が東京と改称されたのは1868年のことだが、江戸湾の名称はその後しばらく使われていた」とあります。

 

ところが・・・「江戸湾」という呼称は、司馬遼太郎が「竜馬が行く」の中で初めて使用した単語で、それ以前、ましてや江戸時代や明治時代には存在しなかったのだそうです。(江戸湾wikipedia本文及びその参考文献)

 

ではどうしてカラカウア王一行は「江戸湾」と書けたのか・・・??

 

同じwikipediaに、「ベネチアに残る1690年の日本図には自国語で江戸湾という表記が見られる」とも書かれています。ということは、「江戸湾」という名称は日本人からでは無く、日本に来る前からヨーロッパ経由でハワイにまで伝わっていたのかもしれないですね。

 

■オセアニック号

カラカウア王が来日した際に乗船していたのは「オセアニック号」という蒸気船でした(上の写真)。

この蒸気船、「ホワイトスター ライン」という会社が最初に手掛けた蒸気船(それまでは外輪船)ですが、実はこの会社、もう1つの船で有名です。そう、あの「タイタニック号」の会社ですね(^^)。

 

※oceanic号の画像は wikipedia.public domain