日本橋本町三丁目の薬種問屋「いわしや」
私は東京シティガイドクラブ(TCGC)会員としてボランティアガイド活動もしています。TCGCには多くの分科会があり、その中に「江戸名所図を媒介として江戸時代を見聞研修しガイド活動に資する」ことを目的とした「名所図グループ」があります。先日このグループ仲間の須藤さんと「日本橋本町の薬種店」の挿絵を見て、いろいろと議論を重ねました。そこで発生した疑問が全て解けたわけではありませんが議論の一部を紹介したいと思います。
議論の始まりは添付の「江戸名所図会巻之一 本町薬種店」の絵です。赤線で括られている「壱番~四番」の家(蔵)は何を指すのかでした。当然自明のことで疑問とするのもバカバカしいと思うかもしれませんが、次のような疑問が出てきてしまいました。
【疑問1 左右の絵の位置関係が逆ではないのか】
本町の街並みは常盤橋から東方向へ1丁目・2丁目と続き、中央通りを超えて3丁目~4丁目となります。名所図会の左の「いわし屋」の所有者は沽券図(明治6年)から松本市左衛門他であり、住所は本町三丁目であることが判っています。本町通りは両側町ですので、本町三の区画は北側と南側がありますが沽券図から「いわし屋」は本町三南区画にあることが判っていますので、この絵は本町北側から覗いた絵という事が判ります。「本町 薬種店」の2枚の絵はそれぞれ本町三丁目(左)と四丁目(右)と最初想像しましたが、日本橋通りを超えた最初の区画は本町三ですので、絵の上で本町三が左に来ることは考えられません。あせらずじっくり見ると、右の絵の左端上部に左の家の庇が描かれていることから、2枚で本町三丁目を描いていることが判りました。
本町三丁目の両側町(カラー化)
私の勘違いから発生した疑問は簡単に解決しました。
【疑問2 どれぞれの家の所有者は誰でしょうか?】
江戸名所図会の長谷川雪旦の絵は1830年頃の制作と考えられますので、不動産の所有者は明治6年の沽券図のそれとほとんど変わらないと想像しました。最右端の家は明治6年には「最首五郎兵衛」所有(元は喜多村彦右衛門町年寄宅)の待合茶屋、 池永栄蔵・前橋トラ所有の住居(?)に続いていわしや一族の住居となります。壱番~四番の名前がついた蔵(?)は池永栄蔵・前橋トラから賃借しているのかあるいは「いわしや」自前の蔵かもしれません。不明です。
例えば『薬の注文が入ったら、番頭さんは丁稚に『三番蔵から「・・・」という薬を持ってきて、店先のお客様に渡しておくれ』というやり取りがあったのかもしれませんね。
いわしやの通りを挟んだ、反対側の店の看板には「返」という文字の上部が見えます。『江戸買物独案内』によれば、本町三丁目北側中程の大坂屋庄左衛門がただ一人「元祖返魂丹」を商っています。三丁目北側には「あ小西長左衛門」と「大坂屋庄左衛門」の二軒の薬種問屋があります。享保年代以降、幕府により防火対策として奨励された瓦屋根、塗り屋の立派な建物で向かって右には蔵造りの建屋が並んでいます。挿絵の薬種屋は、かっての本町三丁目南側中程の薬種問屋兼薬種商の「総本家・鰯屋市左衛門」家と考えて間違いないでしょう。三丁目は東西の通りの長さが120m(京間で60間)程度でありますが、その通りの両側に22軒の薬種問屋(内7軒は製薬・調合も行う薬種商を兼ねた)と7軒もの薬種商が集まっていたとのこと。
注: いわしやグループは現在「平成いわしや会」を構成していますので、いろいろとお教えていただこうと考えコンタクトしました。現本町3に現サクラグローバルホールディングス(旧いわしやサクラ)があるので、そこの田村様に電話で連絡を取り名所図会の話をお聞きしました。武田薬品の本社ビル建設の際に土地を交換し、現住所: 中央区日本橋本町3-1-9に移転しています。残念ながら今回のブログ以上の情報を得ることは出来ませんでした。
因みに薬種問屋あるいは医療機器にも拘わらず「いわしや」を称しているのは、業祖が和泉国堺(大阪府堺市)で網元をしていた薬種商だったという理由です。堺は鰯漁業が盛んな一方で、港には海外からの貿易品が入り、医薬品も取り扱っていました。そんな薬種商が新開地・江戸に下り、故郷に由来する名を名乗ったのでしょう。
今後いわしや「田村様」から面白い情報が聞ければ、続報としてブログで報告させていただきます。
参考文献:
1. 中央区沿革図集(日本橋編) 東京都中央区教育委員会
2. 江戸名所図会