ここは、江戸湊発祥の地なり。
ビルの谷間に、衝き立つ黄金の碇(いかり)。
キラキラと、なかなかの存在感を示しています。
その形状から、船舶や港湾に関係する記念物であることは想像できます。
中央区新川2-31-1。
霊岸島検潮所・量水標跡のモニュメントがある隅田川に面した遊歩道。
その先に、「江戸湊発祥跡の碑」があります。
遊歩道の改修工事が続いていたため、モニュメントの先には行けなかったのですが、一旦開通した折、写真を撮っておきました。
遊歩道には、休憩所の四阿(あずまや)なども設けられており、隅田川の流れや亀島川との合流地点、対岸の佃公園、リバーシティ、そして湊エリアを眺めるビューポイントとなっていました。
今回、ブログを書くにあたり、最新の状況を押さえておこうと出向いたのですが、あららら。
遊歩道は、防潮堤の耐震補強工事のため、6月中旬まで立入禁止になっていました。
工事が終了するまでは、新川のリバー通りから、碑の裏側を見ることになります。
でも、裏側もピッカピカに輝いており、裏表の区別は碑文があるかどうかで判断するくらいです。
ほうれん草の缶詰が欲しかった。
碇というと、直ぐに思い浮かぶ人物がいます。
ポパイ!
船乗りでセーラー服姿のポパイ、恋人のオリーブ・オイル、敵役の大男のブルートが織りなすアニメーションです。
ポパイの腕には、碇のマークが彫られていました。
危機に陥ると、缶詰のほうれん草を頬ばり、超人的な力を発揮します。
あの缶詰が欲しかった。
母に「ほうれん草の缶詰を買って」とねだると、「ほうれん草はいつでも買えるよ」と、食卓におひたし、胡麻あえが出て来ました。
食べても、ちっとも強くなった気がしない。
缶詰じゃないと、強くなる効果は出ないのかな。
まんまと、子供に野菜を食べさせようとする大人達の策略に嵌まっていました。
ちなみに、学生時代のバイブルは、雑誌のポパイでした。
さて、江戸湊
碑文には、「慶長年間江戸幕府がこの地に江戸湊を築港してより、水運の中心地として江戸の経済を支えていた」と綴られています。
この周辺の川筋に全国から物資が集まり、荷揚げ船に積み替えられて、日本橋や京橋などの河岸に陸揚げされていくのです。
歌川広重の名所江戸百景「鉄砲洲稲荷橋湊神社」には、沖に停泊する千石船の帆柱と縄が構図を決め、平船に積み替えられた関西からの下り酒が運ばれる姿が描かれています。
上等な酒、灘の生一本でしょうか。
雪をいただく富士の山と、鉄砲洲の湊神社の朱塗りの塀も見えます。
白壁の蔵も連なっています。
江戸の切絵図で付近を確認します。
大川(隅田川)に亀島川が流入する地点にあるのが、幕府の御船手頭の向井将監の屋敷です。
御船手頭は、幕府の船舶管理と海上運輸を掌る役職です。
向井氏は御船手頭の筆頭であり、世襲の家柄です。
こうした配置も、江戸湊の要衝であったことを物語るものでしょう。
図を見ると、佃島・石川島が河口にどんと睨みを利かせている姿を確認できます。
稲荷橋のたもとの紅い色の地が、湊神社、またの名を波よけ稲荷です。
江戸湊に向かい鎮座する神社は、諸国廻船の人々に篤く信仰されてきました。
現在の社殿は、鐵砲洲稲荷神社の名で120mほど南に遷座しています。
京橋地域の産土神で、年間を通して神事が行われます。
東京港は、今や日本一のコンテナ取扱量を扱う、国際貿易の重要な港です。
港湾や船着き場において、船の出入りを眺めるのはとても趣があるものです。
亀島川水門周辺も、小型の船舶を中心に、様々な形式の船が出入りしています。
ああ、ここが百万の人口を支えた、江戸湊の発祥と言われる場所なのか。
千石船、菱垣廻船、樽廻船、瀬取船、茶船・・・。
大きく帆を張った船や、活発に動き回る港で働く人々の姿を想像してみるのも、面白いものです。
◆ 名所江戸百景「鉄砲洲稲荷橋湊神社」国立国会図書館デジタルコレクション