知る人ぞ知る「はじめて物語」~都市型保健所発祥の地~
こんにちは。アクティブ特派員のHanes(ハネス)です。
本ブログでも多くの特派員が取り上げてきたように、中央区内には数多くの「発祥の地」や「日本初」があり、それらは観光情報センター等で配布されている「中央区はじめて物語マップ」で紹介されています。
銀行発祥の地、日本で最初の果物専門店「千疋屋総本店」といった有名どころはよく知られていますが、私も知らなかった発祥の地が明石町にありました。
それが「都市型保健所発祥の地」で、中央区保健所入口の左壁には、その沿革を刻んだ碑が埋め込まれています。
沿革にもある通り、昭和10年(1935年)、内務省と東京市により「都市型保健所」とされる東京市特別衛生区京橋保健館が現・明石町に開設されました。
では、なぜ京橋区が選ばれたのでしょうか?
今回参照した『日本医史学雑誌』と『聖路加看護大学紀要』によると、選定理由は以下の通り。
(1)人口、面積、その他衛生統計成績などがきわめて標準的であること
(2)人口稠密な都会の中心にあり、大小商店街、住宅街を有するとともに、月島のような工場地帯を有し、一部は港湾に面し、河川溝渠に富み、昼間人口と夜間人口の差が著しいなど、代表的近代都市としての各種の性格を具備していること
(3)既設の公私衛生および社会事業施設に恵まれていること
(4)地元の有力者による熱心な運動参加の希望があったこと
つまり当時の京橋区は、今後の都市型保健所展開に向けてモデルとなりうる都市としての性格を備えており、この事業に対し理解と協力が得られる基盤を有していたのです。
また、明石町と聞いてお察しの方もいらっしゃるかと思いますが、聖路加国際病院の職員が保健館に異動し、初代保健館長や保健婦を務めました。
さらに、同院の公衆衛生看護部で既に行われていた小児健康相談、児童健康相談、母親相談、母親健康相談、結核相談といった事業が移譲されたこともあり、滑り出しは順調。
地域住民の心身の健康を守るため、精神衛生相談、職業病相談、伝染病患者家族の家庭訪問といった都市型要素を含む新しい事業も始まりました。
ちなみに、昭和13年(1938年)には現・埼玉県所沢市に「所沢保健館」が設置され、農村ならではの公衆衛生問題等の対処にあたりました。
京橋保健館同様、こちらも関東大震災復興支援の一環としてアメリカの慈善事業団体ロックフェラー財団からの支援を受けています。
聖路加国際病院も同財団からの寄付により発展してきたことから、日本の保健所の歴史、さらには中央区の医療・保健機関の歴史は、同財団なくしては語れませんね。
京橋保健館が開設された昭和10年当時、京橋区は寄生虫や結核に悩まされていました。
保健館や保健婦はそれらをどのように対処したのでしょうか。
長くなるので詳細は割愛しますが、新型コロナウイルス感染症と共存する今こそ、私たちの生活を支える都市型保健所の黎明期について学ぶ良い機会なのではないかと思います。
参考文献・ウェブサイト
一般社団法人日本医史学会『日本医史学雑誌』2015年,61-2.※表紙絵解説
http://jsmh.umin.jp/journal/61-2/index.html(2022年6月6日閲覧)
学校法人聖路加国際大学
https://www.luke.ac.jp/index.html(2022年6月6日閲覧)
国際協力機構『日本の保健医療の経験 途上国の保健医療改善を考える』国際協力機構国際協力総合研修所調査研究グループ,2004年.
https://www.jica.go.jp/jica-ri/IFIC_and_JBICI-Studies/jica-ri/publication/archives/jica/field/200403_02.html(2022年6月5日閲覧)
全国保健所長会「東京の保健所の歩み」
http://www.phcd.jp/01/enkaku/pdf/2008_ayumi.pdf(2022年6月5日閲覧)
菱沼 典子, 成瀬 和子, 酒井 禎子, 押川 陽子, 森明子, 田代 順子「日本の都市型保健所における保健活動の変遷:1935年から1999年までの東京都中央区の活動」,『聖路加看護大学紀要』,2002年,8,pp. 1-17.
http://hdl.handle.net/10285/434(2022年6月6日閲覧)
藤本大士「戦前・戦後のアメリカ医学振興と聖路加国際病院」,『生物学史研究』,2019 年,98,pp. 64-66.
https://doi.org/10.24708/seibutsugakushi.98.0_64(2022年6月6日閲覧)