中橋に「擬宝珠」はあったか?
慶長8年(1603)に創架された「日本橋」と「京橋」、「新橋」に添付写真のような擬宝珠が付いていたのは有名な話です。「中橋」という名称は、「日本橋」と「京橋」の間にあったのでそのように命名されたということから、中橋の架橋は日本橋架橋の時期よりは後ということになります。おそらく9本の舟入堀が造られた1612年~1615年と推測されます。江戸前島の舟入堀の一つであった紅葉川(現八重洲通り)にかかっていた「中橋」には、擬宝珠はあったのでしょうか?なかったのでしょうか?
結論は残念ながら「擬宝珠があったかどうかは判らない」ですが、このような結論を導き出した過程を紹介したいと思います。
まず日本橋の架橋の歴史を紐解きます。江戸時代における木造橋の寿命は平均20年とされているので、創架から15年を経た元和4年(1618)に改築されたというのは事実でしょう。この時、日本橋ー中橋ー京橋がつながったと推測されます。明暦3年(1657)までの約40年間、大火に類焼したという記録がありません。20年目の前後というと、寛永15、16年頃(1638、1639)のことであって、おそらくこの時に擬宝珠が初めてかけられたと言われています。中橋は既に造られているでしょうから、日本橋・京橋と同時期にかけられたかもしれません。日本橋欄干の擬宝珠はそれ以前からあったのかどうか不明ながら、明暦の大火後の改架時につけられたことは「享保撰要集」に「日本橋擬宝珠十」として記しているので明らかです。しかし中橋に関わる記述はありません。
『武江年表』には細注で次のようなことが書かかれています。
「或書に、昔は鹿相(?)の橋にてありしが、この時始めて勾欄擬宝珠等出来し、といえるはいかがあらん。寛永の『あづまめぐりの図』にも、ぎぼうしゅあり。この時児玉勝次という人わたり始めるという」
「中央区史」によれば、欄干造り唐銅(からかね)擬宝珠親柱の橋は、江戸城見附御門のほかは、日本橋と京橋の二橋のみと断言しているので、中橋にはなかったのかもしれません。日本橋・京橋とは「格」が違うのでしょうか?
中橋の埋め立て
明暦の大火後の改架時につけられたことは「享保撰要集」に「日本橋擬宝珠」として記しているので、それ以前にはどの橋も擬宝珠はなかったでしょう。
中央区沿革図集の「江戸前島の舟入堀」によれば、1673年~1681年までに紅葉川の西半分が埋め立てられました。延寶年中手形によると、西半分が埋め立てられ橋も完全に撤去されています。一方紅葉川の東半分は安永3年(1774)から弘化3年(1845)にかけて埋め立てられて、中橋と紅葉川という地名を残してその姿を消しました。日本橋や京橋の擬宝珠のように証拠がありませんので、残念ながらこれ以上は追跡できません。