三越のマークに歴史あり
日本橋や銀座を歩いているとよく見かける三越のマーク。
丸の中の「越」の字に、縁起のよい数字が隠されているのをご存じでしょうか?
実は、筆の当たり所と跳ね先が七五三になるようにかすらせて描かれているんです。
このことを知ってから、三越マークを見るたびに、かすれ部分をよーく観察するようになりました。
江戸時代は「丸に井桁三」
ところで、三越のマークがいつから現在のような「丸に越」になったのか、皆さんはご存知でしょうか?
江戸時代の錦絵では、日本橋駿河町にあった三井越後屋の店先には「丸に井桁三」の暖簾がズラリとかかっています。
広重『東都名所 駿河町之図』(国立国会図書館デジタルコレクションより転載)
このマークは、三井創業の祖・三井高利自ら定めたものだそうです。
元々、武家の出である三井家は、近江源氏・六角佐々木氏と同じ「四ツ目結」を家紋としており、越後屋の開店時はそのまま「四ツ目結」を使用していましたが、その数年後には「丸に井桁三」に店章を改めたと言われています。
明治時代に「丸に越」へ
三井越後屋の店章が「丸に越」へと変わるきっかけとなったのは、明治維新でした。
幕末の動乱などで経営が悪化していた越後屋は、銀行設立を目指す三井から形式的に切り離されることになります。その際、従来使っていた「丸に井桁三」の店章を廃して、「丸に越」の店章を使うことになりました。明治5年(1872年)のことでした。
孟斎芳虎『東京駿河町三ツ井正写之図』(国立国会図書館デジタルコレクションより転載)
こちらの開化絵は、現在の日本橋三越本店と三井本館がある場所を描いたもので、明治7年(1874年)に発行されたものです。
手前の二階建ての建物には、どちらも「丸に越」の暖簾がかかっています。
奥の三階建ての擬洋風建築は、三井銀行の前身となる駿河町為換バンク三井組ハウスです。日本初の民間銀行立ち上げのために行われた経営資源の選択と集中の結果が、1枚の絵から読み取れ、非常に興味深いですね。
三越は、その後明治29年(1896年)に店章を「丸に越」から「丸に井桁三」へと戻しますが、8年後の明治37年(1904年)に再び「丸に越」に戻します。
この年は三越が「デパートメントストア宣言」を行い、呉服店ではなく、百貨店として生き残ることを内外に力強く示した年でした。