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生誕180年!トーマス・ウォートルスの功績を称えて


こんにちは。Hanes(ハネス)です。
2022年は、銀座煉瓦街の設計者トーマス・ジェームズ・ウォートルスの生誕180年にあたる年です。
1842年にアイルランドのオファリー県バー(当時のパーソンズタウン)で生まれた彼は後に来日し、鹿児島、奄美大島、大阪、そして東京にて、土地の測量・売買・管理から道路・水道の整備、建物の建設に至るまで幅広く従事しました。

彼の功績として最も知られている1872年の銀座煉瓦街着工時には、なんと30歳という若さ。
時代の転換期において、日本が若かりし彼から受けた恩恵は非常に大きかったと言えます。

 生誕180年!トーマス・ウォートルスの功績を称えて

再現・復元された煉瓦とガス燈


彼が生まれた当時、アイルランドは英国の支配下にありました。
そのことから、日本の文献や史跡には彼が「英国人」「イギリス人」として記されており、「アイルランド出身」としてほとんど認識されていないのが事実。
また、銀座文化史学会によると、明治時代の建築界ではオランダ訛りが主流だったそうです。
そのため、今でも英語読みの「ウォーターズ」ではなく「ウォートルス」として親しまれています。

生まれた国や名前をとっても、時代の影響を大いに受けてきたことがよく分かります。
今回は生誕180年を祝い、中央区内でのウォートルスの功績を深掘りしてみたいと思います。

日本初の洋式製紙会社「有恒社」

有恒社は、1872年に日本橋区(水天宮の近く)に旧広島藩浅野家当主浅野長勲が設立した日本初の洋式製紙会社。
彼は、既に銀座や横浜で洋紙の販売を行っていた杉井幾三郎と杉井の紹介で知り合ったウォートルスからその事業を薦められました。
製紙工場の建設地として水天宮の近くを選んだ理由は、周囲が旧武家地で民家が少なかったため、煙突から排出される煤煙や機械稼働の騒音による近隣への迷惑を最小限に抑えられると判断したからでした。

 生誕180年!トーマス・ウォートルスの功績を称えて

1900年前後の水天宮(出典:写真の中の明治・大正-国立国会図書館所蔵写真帳から- 水天宮、保護期間満了)


有恒社の設立に際し、ウォートルスは煉瓦造り2階建ての工場の設計・施工・監督、さらには製紙機械の調達・整備、製紙技術指導者の手配まで行いました。
そこには実弟のアルバート・ウォートルスも関わっていたことが明らかになっています。
(残念ながら1906年の市区改正によりこの工場は移転を余儀なくされ、閉鎖されることとなりました。)
王子製紙の前身「抄紙会社」の設立に1年先立ち、ウォートルスが近代の洋式製紙技術の普及にも貢献していたことは実はあまり知られていないのではないでしょうか。

東京初の日刊紙を創刊「日報社」

時は1873年。ウォートルスによって整備された銀座煉瓦街の中に、煉瓦街最大の建物が竣工されました。
そこには江戸時代からの両替商・呉服商である島田組が営む呉服店「恵美須屋」が入るも、1874年に倒産。
その煉瓦造りの建物には、1872年に東京初となる日刊紙「東京日日新聞」を創刊した日報社が移転してきました。
日報社は1874年に浅草から銀座2丁目に進出してきたものの、部数の拡大で手狭になったことを理由にこの大きな建物へ。

 生誕180年!トーマス・ウォートルスの功績を称えて

銀座街道(出典:写真の中の明治・大正-国立国会図書館所蔵写真帳から- 銀座街道、保護期間満了)


煉瓦街が完成しても従来の木造家屋を好み、湿気や雨漏りに悩まされて入居を控えた人が多かった反面、呉服店や新聞社が日本の文明開化の象徴となる煉瓦街に店や会社を構えることはある種のステータスだったのかもしれません。
特に新聞社が煉瓦街最大の一等煉瓦家屋に入居できるとは、新時代の幕開けを感じさせるのではないでしょうか。

ウォートルスの住居は何処に

最後に注目すべきは、当時の銀座の街づくりに大いに貢献したウォートルスの住居の場所。
明石町には、指紋が個人認識に利用できることを発見した英国人医師・宣教師ヘンリー・フォールズの住居跡を示す石碑が残されていますが、残念ながらウォートルスの住居を示すものは街中に残っていません。
では、彼の居住地の手がかりとなる記録はあるのでしょうか?

 生誕180年!トーマス・ウォートルスの功績を称えて

当時のままフランス積みで再現された煉瓦


銀座文化史学会の調査・研究によると、『明治工業史 歴史篇』には1870年に木挽町にウォートルスの官舎が竣工したという記録があるそうです。
銀座大火の前は木挽町3丁目に官舎があり、周囲には由利公正をはじめとする当時の立役者も住んでいたといいます。
そういった周辺環境より、ウォートルスがいかに期待されたお雇い外国人であったかが推測できます。
具体的な居住地については諸説ありますので、考察が気になる方は『謎のお雇い外国人ウォートルスを追って-銀座煉瓦街以前・以後の足跡』の114~115ページをご覧ください。

おわりに

本記事では、ウォートルスの製紙分野での功績、煉瓦街の家屋の利用状況、ウォートルスの居住地を簡単にご紹介してまいりましたが、いかがでしたでしょうか?
私自身、彼が日本初の洋式製紙会社に大いに関わっていたとは知らず驚くとともに、銀座煉瓦街の家屋の具体的な入居者や用途を知ることができ学びにつながりました。

今回は詳細を割愛しましたが、彼の居住地については興味深い当時の記録も複数残っています。
ウォートルスの木挽町での生活について何か情報が得られないか、今後はさまざまな角度から調べてみたいと思います。

ウォートルス生誕から180年、銀座煉瓦街着工から150年。
銀座の街並みは大きく変わりましたが、かつて遠くの島国からやってきたお雇い外国人によって実現した煉瓦の街並みの名残は、今でも銀座・京橋エリアで確認することができます。

参考文献・ウェブサイト

【参考文献】
岩下哲典 編『江戸時代来日外国人人名辞典』東京堂出版,2011年.
銀座文化史学会『謎のお雇い外国人ウォートルスを追って-銀座煉瓦街以前・以後の足跡』銀座文化史学会,2017年.
今和次郎,前田健二郎,山脇巖・道子,山口文象『第3回資生堂ギャラリーとそのアーティストたち 銀座モダンと都市意匠』資生堂企業文化部,1993年.
中央区観光協会 編『歩いてわかる 中央区ものしり百科』JTBコミュニケーションデザイン,2017年.

【参考ウェブサイト】
銀座もとじ「江戸や明治の人々も殺到した!? バーゲンセールの歴史|知るを楽しむ」https://www.motoji.co.jp/blogs/reading/bargain_sale202107(2022年9月5日閲覧).
三井住友トラスト不動産「明治期の銀座」https://smtrc.jp/town-archives/city/ginza/p02.html(2022年9月5日閲覧).