【小説に見る中央区 第1弾】高見順『日本の靴』
こんにちは。Hanes(ハネス)です。
昨今、中央区は様々な小説の舞台となり、本ブログでは考察記事を書かれている方もいらっしゃいます。
時代や視点が異なれば、中央区内の描写にも変化が生じます。
また、中央区にゆかりのある人物を主人公やモデルにした小説もあり、彼らと中央区の関係をより深く知るための手助けとなっています。
そこで新たに始める「小説に見る中央区」シリーズでは、中央区を舞台とした小説または中央区にゆかりのある人物が登場する小説を読み、その内容と現在の中央区の様子を合わせてご紹介してまいります。
異なる時代の「中央区」を訪れた気分でお楽しみいただけましたら幸いです。
さて、記念すべき初回に取り上げるのは、永井荷風の叔父の子・高見順の短篇小説『日本の靴』。
現・中央区入船に「靴業発祥の地」があることは本ブログでも多くの特派員がご紹介してきましたが、日本初の西洋靴の工場「伊勢勝造靴場」を開設した西村勝三が、その小説で取り上げられていることはご存じですか?
小説は、「日本で一番最初に製靴業に着手した人は誰か」で始まり、高見が友人と隅田川沿いの銅像堀公園を訪れ、西村勝三の銅像を目にしたことを皮切りに話が展開します。
その銅像は古風なシルクハット、クロックコート、右手にステッキ、左手に外套、鼻下に髭と明治時代の著名な「民間人」としては風格があったそう。(現在、墨田区立銅像堀公園には西村勝三の銅像はありません。)
後に高見が蘭印(オランダ領東インド)を訪れ支那人の靴屋を利用した際、日本にはいつ頃洋靴が入ってきたのか気になります。
帰国後そういった興味は一旦頭から離れるものの、後日再び銅像を見に行き調べものをするうえで靴に対する興味がいっそう燃え上がります。
小説内で高見は、「國家のために、士族の身ながら、總ての職業中最も卑しむべきものとされてゐた製靴製革の業にその身を投じたといふその決意が、激しく私の心を打った。今日、轉業問題がやかましい折柄、国家的見地から敢へて製靴製革の業に着手したこの先覺者の業蹟を顧ることは、意義深いものがある。かくして私はこのことを小説に書かうと思ひ立つたのである」と記しています。
しかし、時代小説の手法に慣れておらず、故人を傷つけることを恐れた高見は、「常套的な小説化を避け、素材そのままを書きしるす方法」を取りました。
本記事では中央区に関する部分をかいつまんでご紹介しますので、詳しくは実際に小説をお手に取っていただければと思います。
『日本の靴』によると、(輸入品の)靴の使用は、外国の士官を招いて洋式訓練を始めた徳川幕府時代に遡ります。
そして明治時代における軍制改革こそが、靴の輸入から国内調達への転機となりました。
「靴業発祥の地」の碑にもその名が刻まれている当時の兵部省大輔大村益次郎は、西村勝三に「洋服といひ靴といひ、悉く皆之を海外に仰ぐに於ては、國家の損失は極めて大なり」と述べ、商工業の推進を指示したそうです。
そこで西村は、弟で糸魚川藩士の綾部平輔と同藩の高橋誠治に同志となってくれるよう説得し、大反対にあいながらもなんとか仲間に引き入れます。
その時の高橋は、武士の象徴である髷を切って涙を流したと記録されています。
前述の通り、当時の靴業の社会的評価が「總ての職業中最も卑しむべきものとされてゐた」ためかもしれませんね。
そもそも国内で靴を製造するにあたり、既に日本に入ってきていた輸入品の靴が日本人の足には合わないという決定的な問題がありました。
そこで、かつて香港で靴屋を営んでいた支那人藩浩を横浜から招き、入舟町輕子橋際の二軒屋を練習所とし、高橋やその他の者に製靴技術を学ばせたそうです。
日本人が製靴に着手し始めたこの時、時代は明治3年3月15日、西村35歳の時でした。
時を同じくして、廃藩置県の影響で失業した武士を練習所に招き入れ、合計20余人で製靴の法を学びます。
後には横浜で靴屋を経営するオランダ人マルシャンを呼び寄せ、教師としました。
時代の転換期における並々ならぬ努力と製靴に精通した人たちとの交流があってこそ、国産の靴の製造が可能となったのです!
しかし、靴の原料である革は依然として外国からの輸入に頼っていました。
そこで西村は明治3年10月に製革工場を入舟町に設け、軍靴用の革製造を開始。
明治22年までには一切外国の供給に頼らずとも革を調達できるようになり、逆に海外で活躍する日本人靴工も現れるようになったそうです。
革の調達まで自力でこなしてしまうとは、その熱意と気力に感服するとともに、なぜ高見が彼に心を打たれたのか少し理解できたような気がします。
西村勝三にご興味のある方は、2019年4月の記事「【遠足シリーズ第13弾】足元からオシャレを♪「成功者」の人生に見る日本の製靴産業史」も合わせてご覧ください。
【余談】
前述のマルシャンの父の家に、オランダ留学中の海軍大佐沢太郎左衛門が宿泊したことがありました。
マルシャンはこれをきっかけに来日することに。
はじめは土佐藩で雇われ製靴技術を指導し、その後横浜に出て靴屋開業。
1872年または1873年から1875年まで築地居留地に住み、ヨーロッパの製靴技術を初めて日本人に伝えたことで靴業界の恩人と言われています。
後に日本人と結婚し、帰化。両政府の許可を得て挙式も終え、明治初期の国際結婚の先駆者の1人となりました!
さらに銀座尾張町2丁目5番地にル・マルシャン製靴所開業する等、仕事も順調だったようです。
参考文献・ウェブサイト
【文献】
岩下哲典 編『江戸時代来日外国人人名辞典』東京堂出版,2011年.
高見順『高見順全集 第10巻』勁草書房,1971年.
【ウェブサイト】
東京都立皮革技術センター「靴の歴史散歩 58」https://www.hikaku.metro.tokyo.lg.jp/Portals/0/images/shisho/shien/public_2/113_6.pdf(2022年9月7日閲覧)