すっとこどっこい

入船、湊は印刷製本の町

築地一丁目のビルの片隅、植込みにひっそりと活字発祥の碑があります。

"明治六年(1973)、平野富二がここに長崎新塾出張活版製造所を興し

   後に株式会社東京築地活版製造所と改称し日本の印刷文化の源泉となった。”

 と刻まれています。

幕末に長崎奉行所のオランダ通詞だった本木昌造は外国の書物に接する機会が多く出版に興味を持ち、日本の活版印刷の先駆けとなります。

昌造の後年の弟子の一人が平野富二です。

オランダ技師から様々な機械学を学んだ富二は優秀なエンジニアになっていました。

活版印刷業で窮地に追い込まれていた昌造の事業を引き継いで立て直します。

その後東京(神田和泉町)に出て長崎新塾出張活版製造所を開設します。

築地に移転して、築地活版製造所と称し、活字だけでなく、活版印刷機の製造、販売を本格的に始めました。

この碑は1971年に建てられました。

 

 入船、湊は印刷製本の町

平野富二は印刷事業だけでなく造船業鉄鋼業土木建設業を日本に広めた第一人者です。

渋沢栄一に匹敵するような事業家だと思いますがまだあまり知られていないかもしれません。

海軍省から石川島の土地を貸与されて石川島平野造船所を興します。今の I H I の前身です。

海運事業も始めて、そこは今の東海汽船として残っています。

造船だけでなく組立式軽便鉄軌を輸入し鉄道工事も始めます。

 山手線の大崎・渋谷間の工事や東北線各所の工事を請け負いました。

 

石川島造船所は大きな鉄の加工が可能な日本唯一の工場でした。

石川島で吾妻橋の部品を製造し、隅田川最初の鉄橋として架設します。

当時最も高い建物であった浅草の凌雲閣に設置された日本初の電動エレベーターも造りました。

 

そんな大河ドラマにもなりそうな人、平野富二の造った活版印刷機の現物を入船にあるミズノプリンティングミュージアムで見ることが出来ます。

上記の写真の機械は現存する国産印刷機としては最古の物とされます。

”インクを盛った組活字版の上に紙を置きそこに上蓋をして、プレス場所へと移動させ、人力でレバーを引いてプレスし、印刷をする。レバーを放すとスプリングにより圧盤は上へ戻る。1820年頃にイギリスのリチャード・W・コープが考案したアルビオン型印刷機を国産化したものである。”

 と説明書にあります。

”H” を丸で囲んだ平野活版印刷所の刻印が見えました。

2007年に中央区民文化財”に認定されます。

同じく 日本機械学会が選定した”機械遺産 第17号”にも認定されました。

 

ミズノプリテック株式会社 総務部の村山さんに丁寧に説明頂き、大変お世話になりました。

世界最古の印刷物 ”百万塔陀羅尼” や ”学問のすゝめ”初本版など貴重な物が見られます。

ミズノプリンティングミュージアムの見学には予約が必要です。

TEL:03-3551-7595  月曜日 に開館です。

 

 入船、湊は印刷製本の町

銀座にある石川啄木の歌碑です。

 ”京橋の瀧山町の新聞社

   灯ともる頃の いそがしさかな”

 と刻まれています。

明治42年から三年間、銀座滝山町(現銀座6丁目)の朝日新聞で勤務していたことで、啄木の没後60年を記念して建てられた碑です。

 

朝日新聞毎日新聞読売新聞も、明治期、銀座には数多くの新聞社がありました。

現在休館中の江戸東京博物館によると銀座には大小100社を超えた新聞社があったそうです。

 

 入船、湊は印刷製本の町

銀座の交詢社ビルです。福沢諭吉の提唱した実業家の社交クラブです。

福沢が創刊した日刊新聞、時事新報はここにありました。

それに”日本紳士録”を出版する出版社でもありました。

 

諸説ありますが・・・

江戸時代の中心地は日本橋です。

明治になり銀座という街が出来、大火で焼けた後、煉瓦街になりました。

老舗が立ち並ぶ日本橋に対して、銀座には舶来品中心の新しいお店が出来ます。

煉瓦街は耐火性の評判の良さと裏腹に、雨漏りや湿気の多さでビルの空きが増えたと言われます。

 物件の価格がかなり高かったせいだとも・・・。

でも銀座は明石町の外国人居留地が近く、また横浜まで行ける鉄道がある新橋駅のそばで外国の情報がすぐに入ります。

新政府の中心地も近く、兜町銀行がある日本橋もすぐ隣りです。

まさに政治経済や流行の発信地です。

だから銀座の空き店舗に新聞社が続々と進出し、出版社や雑誌社、広告社も並んだのだと思います。

 

明治初期は新聞社を大新聞小新聞と分けて呼ばれていたそうです。

 大新聞(おおしんぶんと呼ぶようです)は、知識階級向けに政論を主体にしたもの

 小新聞(こしんぶん)は、庶民向けに娯楽記事を主体にかかれたもの

  だそうです。

当初大新聞と呼ばれた毎日新聞も娯楽記事を載せるようになり、最初からの朝日新聞、読売新聞と共に字の意味では現代の大きな新聞社が小新聞と言われたのは不思議な気がします。

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 入船、湊は印刷製本の町

銀座の新聞社や出版社に近い入船には必然的に印刷業製本業が盛んになりました。

 

上記の写真は入船にある昭和30年創業の印刷工場です。

印刷工場で修行を積んだ先代が独立して開業しました。周りには同業社が沢山あった時代です。

この場所に開業した理由は先代が亡くなっているのでわからないそうです。

現在は2代目社長が継いでいます。

つい最近、勤続62年の兄のような存在だった工場長が惜しまれながら引退されたばかりです。

 

 入船、湊は印刷製本の町

同じ印刷工場の活版印刷機です。

工場長はオフセット印刷機を、現社長が活版印刷機を分担して作業していたそうです。

活版印刷は需要が減り、限られた印刷工場にしか残っていないようです。

名刺に活版印刷機を使って印刷すると微妙な凹凸ができ、高級感が出ると人気があるそうです。

写真を撮らして頂いた次の日に活版印刷機を使用すると教えてもらいました。

ミシン目を付ける印刷をするそうです。

今一つイメージが湧きませんでしたが、後日刷った現物を見せていただけました。

振込用紙など切り取り線上に活版の歯を印刷する事で用紙に凹凸が出来、普段目にするミシン目が出来ています。

活版印刷以外で他にもミシン目を入れる方法はありますが、活版印刷機の活用方法の一つです。

 入船、湊は印刷製本の町

入船製本所の製本機械の写真です。

神田で創業して入船に移転して100年になる製本所で4代目社長が継いでいます。

製本業は本を作る会社だけでなく、パンフレットや雑誌類を作る会社もあります。

写真の製本屋さんが現在多く扱っているのは帳票伝票類だそうです。

 

 入船、湊は印刷製本の町

印刷に関連する職業も入船・湊には沢山あります。

その中の一つ、入船研磨所の機械の写真です。

研磨所とは紙工所(紙を注文のサイズに切断する)や製本所が使用する裁断機の歯を研ぐ職業です。

わずかな歪みや滑りにくさがあると綺麗に紙をカット出来ません。

定期的に歯のメンテナンスをする技術は職人技です。

 

 

銀座は華やかな最先端の街 

 築地は魚河岸と本願寺

  明石町は学校発祥の地と聖路加

   新富は料亭や三味線の音が残る街

そして 入船印刷と製本の街

これが私の思う街のイメージです。 

 

入船を昭和38年の住宅地図で見てみました。

自分の記憶も含めてで、会社の大小は関係なく印刷業製本業を数えてみました。

印刷業 入船一/15軒 入船二/21軒 入船三/14軒 湊一/13軒 湊二/35軒 湊三/32軒

製本業 入船一/5軒  入船二/1軒  入船三/4軒  湊一/3軒  湊二/9軒  湊三/10軒

他にも印刷に関係する職業、例えば紙工業活版業写植版下研磨所が沢山あります。

 

京橋図書館地下資料室にある 湊三丁目町会 三十周年記念誌 を見ました。

今では個人情報であり得ませんが町会員名簿が載っています。

町会員(世帯主)の職業欄もあります。総数は520世帯でした。

 印刷業と記載されている世帯は 82世帯

 製本業と記載されている世帯は 42世帯

 関連する職業と思われる世帯は 16世帯

勤務地は湊三丁目とは限りませんが沢山の人が携わっています。

 

現在の入船は開発が進みタワーマンションやホテルなど高い建物が続々と出来ています。

特に湊二丁目は大きく変わりました。

時代の流れで印刷屋さん製本屋さんは減っています。

私は以前寝ていた場所は路地に面していてその5m前が印刷屋さんでした。

朝寝坊するとガッチャンガッチャンと印刷機械の音が子守唄でした。

今は確かに変わりつつある街です。

でも今も入船に印刷の機械の音が聞こえるのは私の記憶の中のことではありません。

今年も印刷屋さんや研磨所さんの前で、お盆の迎え火や送り火の風景を見ました。

下町の素敵な素敵な風景です。