薬のまちに残る「本町薬種問屋発祥の地」
こんにちは。アクティブ特派員のHanes(ハネス)です。
時々ニュースでも取り上げられる通り、中央区内の随所では再開発が行われています。
それに伴い、史跡の案内板が一時的に移動・撤去されたり、より情報の充実した案内板に交換されたり、はたまた案内板が新設されたりしています。
以前ご紹介した「狩野画塾跡」の案内板も移設・交換されたものの一つです。
先日、日本橋本町にて見慣れない案内板が目に入りました。
そこには「本町薬種問屋発祥の地」と書かれており、約半年となる今年3月に設置された比較的新しい案内板のようでした。
案内板によると、江戸時代初期から日本橋の本町2・3丁目(現在の日本橋室町2・3丁目と日本橋本町2・3丁目)や大伝馬町周辺には、薬草や薬を扱う薬種問屋が軒を連ねていたそうです。
特に名高い薬種問屋は仲間組合を結成し、独占販売を行ったのだとか。
そして本町3丁目のあたりは薬の匂いが立ち込めるほど薬種店や問屋が集まっており、「本草を道へならへる三丁目」「三丁目匂はぬ見世は三四軒 四丁目もまだちらほらと匂う也」などと川柳に読まれたほど。
具体的に匂わない店が3~4軒と言われると、何軒中か気になってきませんか?
そこで手がかりとなるのが、案内板でも言及されている江戸時代の買い物案内書『江戸買物独案内』や『江戸鹿子』。
『江戸買物独案内』には、本町3丁目に約40軒、本町全体で60軒近くの薬種問屋が掲載されており、『江戸鹿子』には、本町3丁目に36軒の薬種問屋、72の医者の記録が見られます。
ここからは、本町3丁目には約40軒が店を連ね、その9割が薬種問屋であったと言えるのではないでしょうか。
このように一か所に同業者が多く集まったのは、徳川家康が江戸に集まった商工業者に業種別に集まって住むようお触れを出したからでした。
現在この案内板のすぐそばには武田薬品工業株式会社グローバル本社があり、江戸時代から続く薬のまちの面影が見て取れます。
また、案内板で言及されている1929年造営の薬祖神社は、ビル屋上の2代目を経て、2016年9月に福徳の森内(現在地)に遷座されました。
日本で数少ない医薬の祖神である大己貴命(おおなむじのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二柱が祀られており、薬にゆかりのある神社ということで、ご利益は無病息災と病気平癒。
日本橋本町の薬業界では、昔からこの二柱を祭神とする水戸の大洗磯前(いそさき)神社や酒列磯前(さかつらいそさき)神社、東京上野の五條天神社に参詣しており、1908年に五條天神社から薬祖神の御霊をお迎えし祀ったことがこの神社のはじまりです。
(大洗磯前神社については、2018年の記事「茨城の魅力再発見!IBARAKI senseが光る場所」をご覧ください。)
現在日本橋エリアでは、史跡・遺跡やイベントを通して江戸時代の町の様子を知ることができます。
例えば、芝居小屋や茶屋が多数集まる芝居町としてにぎわいを見せた堺町・葺屋町、馬喰町の公事宿に投宿する旅人のために小間物問屋などを開き、問屋街となった横山町・馬喰町・堀留町、生活物資の集積地・日本一の陶磁器市場として栄えた人形町。
江戸時代の町割(都市計画)は、身分の区分のみならず、町人(商工業者)の中でもさらに細分化されていたとは興味深いですよね。
今回は案内板をもとに簡単に薬種問屋の集積した日本橋3丁目についてご紹介しましたが、今後もう少し掘り下げて調べてみようと思っています。
中央区でまち歩きをする際は、スマホでも手軽に見られる江戸時代の切絵図などを参考に、約400年前の日本橋に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?