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『どうした徳川家康』 幾何学の問題の答えは?

今回は三浦按針のお話。 三浦按針と幾何学、徳川家康にどんなかかわりがあるのでしょうか?

徳川家康から拝領した横須賀の領地に由来する「三浦」と、パイロットとして磁石を監視していることから派生した「按針」(水先案内人)を組み合わせた日本名を持つウィリアムアダムスはイギリス人ですが、何語を介して日本人とやり取りしたのでしょうか?長年日本に住んでいましたから多少は日本語を理解できたとは思いますが、英語の指導を日本人に行ったという記述はどこにもありませんので英語ではないでしょう。彼の出来た「ポルトガル語」を中心に交流したと予想されます。例えば東インド会社の司令官ジョンセーリスが来日した際には、ポルトガル語通訳を挟んで英語⇔ポルトガル語⇔日本語のリレー通訳が行われたと予想されます。

三浦按針の文章の中に、I learned him some points of jeometry, and understanding of the art of mathmatiesという文章が残されています。ここでいうhim家康です。文法的には下線部が誤りのように見えますが、誤りではありません。(明るい安村のDon’t worry! I'm wearing.をもじった積りで書いてみましたが伝わらないかもしれません。)シェークスピアの時代のlearnは、間接目的がつく場合には「教えた」という意味になります。ですから正解は、I taught him some points of geometry, and understanding of the art of mathematics.となります。家康は三浦按針に幾何学を習ったのですね。

これが事実とすれば、家康は幾何をならった最初の日本人となります。 

三浦按針が住んでいた頃の日本橋界隈

三浦按針が住んでいた頃の日本橋界隈 『どうした徳川家康』 幾何学の問題の答えは?

アダムスが家康から拝領した日本橋按針町付近が当時どのような状況にあったかは、1609年フィリピンからスペインに帰国途中に、船が難破して日本訪問を余儀なくされたドン・ロドリゴ(マニラ提督)が家康に引見する機会を見聞録として残したものに紹介されています。この内容は三浦按針が住んでいた頃(1564年9月~ 1620年5月)の江戸の姿でしょう。

「江戸の町は住民が15万人、海に沿っていて、町の中央に水量の多い川が流れかなり大きな船がつながっているので、食料の大部分は川によって容易に手に入る。したがって値段は非常に安い。男子一人が一日に半レアル(1レアル=約27.0円)あれば十分に暮らしていける。全ての物価は安価で、パンは真っ白で良質のものが半斤で一個になっている。これが15個で1レアルである。パンは日本人が果物同様、常食以外に食べる食品であるが、この江戸の町で作るパンは世界で最もいいものと言ってよい。しかし買う者が少ないため、ほとんどタダ同然である」

参考文献:

1) 日本橋駿河町由来記(絶版):駿河銀行第三代頭取 岡野喜一郎殿起案  駿河不動産(株)協力        編集・出版協力: 中央公論事業出版

2) 日本橋私記: 池田弥三郎

3) 日本橋志: 木村毅