竹久夢二『宵待草』の恋人
大正時代の美人画で多くの人に知られている「竹久夢二」。
外堀通りと永代橋通りが交わる『呉服橋』の交差点の近くには、彼が出店した「港屋絵草紙店」の跡地があります。それを偲ぶ碑がここにあったのですが、最近流行りのビルの再開発が始まって見られなくなりました。
これですね。
この碑には、夢二が描いた港屋絵草紙店のポスターが陶板ではめ込まれ、その右に『宵待草』の歌詞が刻まれています。
まてど暮せど来ぬひとを
宵待草のやるせなさ
こよひは月も出ぬさうな
マルチな才能を発揮した竹久夢二。絵画だけではなく、詩や小説も世に出しました。また、グラフィック・デザイナーの草分けとも言われ、そのデザインは今でも多くの人の心をつかんでいます。
彼が一番世間に認められているのは絵画なのだと思いますが、本当は『詩人』になりたいと思っていたらしいです。でも、それでは生活が出来なかったので、文字の代わりに絵の形で詩を画いてみたところ、次第に名が知られるようになった、とのこと。
そのためでしょうか。彼が描いた絵には、詩に裏付けられたような情感が感じられるところがあって、不思議と惹きつけられてしまいます。
「NDLイメージバンク」より
また、ストレートに書かれた彼の詩も素晴らしいものがあります。『宵待草』の詩には曲がつけられ、大正時代の中頃には全国的なヒットとなりました。
『宵待草』の歌が、港屋絵草紙店と直接関係があったのか、という点は疑問ですが、彼の書いた最も知られている詩、ということで、港屋絵草紙店の碑に刻まれているのだと思います。
この「宵待草の碑」ですが、調べてみると、ここ中央区だけではなく、彼が生まれた岡山、青年時代の一時期を過ごした北九州、旅で訪れた会津など、全国各地にあるようです。
特に千葉県銚子の海鹿島(あしかじま)にある石碑が言わば本家、ということらしく、銚子電鉄にも乗ってみたいということもあって、今年の冬に訪ねてみました。
海鹿島へ・・・
銚子駅から、憧れの銚子電鉄に乗って数駅、海鹿島の駅にたどり着きます。結構な数の観光客が乗っていましたが、この無人駅で降りたのは私だけでした。最近私は、こういった少しひっそりとした所を訪ねてみるのが好きみたいです。
〈銚子電鉄・海鹿島駅にて〉
関東地方の駅で最も東にある、この「海鹿島駅」。少し歩けば、犬吠埼近くの太平洋の海岸に出ることもできます。
風光明媚な景観を誇っているこの辺りは、かつて多くの別荘も建てられていた保養地で、明治・大正時代の文人たちが多く滞在しました。
東京中央区でいうと「海水館」のような場所です。
1910(明治43)年、夢二も海鹿島を訪れます。
一度結婚して別れ、また一緒に暮らすようになった元妻の「たまき」さんと、その長男の「虹之助(2歳)」の3人で、この夏を過ごしました。
海辺にある、少し高くなった丘に腰を下ろして、松原の美しい海をスケッチしていた時のことです。
ひとりの女性が夢二の前を横切りました。
「長谷川カタ」さんという『月のように清い少女』との出逢いです。夢二25歳・長谷川さん19歳の夏の終わりのことでした。
恋多き画家と呼ばれる竹久夢二。家族で来ているのに何をしているんだ、という話は置いておくことにして、夢二は長谷川さんを気に入りました。長谷川さんのことを『おしまさん』と呼び、絵のモデルとして描いたり、デートも重ねます。
しかし、このおしまさんとの淡い夏のヴァケーションは、10日間ほどで終わりました。
そのあと半年後の冬に再会、さらに翌年の夏の同じ頃に夢二はまたこの海鹿島にやってきます。しかし、もう会うことはありませんでした。おしまさんは、放浪者夢二との仲を心配した親の働きかけで、他に嫁ぐことになっていたからです。
わりと寂しく建っている、この海鹿島にある石碑。
「宵待草」は、この海鹿島でのおしまさんとの出逢い、そして会えなくなったことを嘆いた、夢二自身の悲恋の詩とも言われています。
まてどくらせどこぬひとを
宵待草のやるせなさ
こよひは月もでぬさうな。
この石碑から海岸へ。
海鹿島の砂浜を歩いて、少し高くなった丘に登り、腰を下ろしてみます。心地よい潮風に吹かれながら、砂浜を眺め、趣くままにシャッターを切る。
夢二がこの丘でスケッチをしたのかはわかりません。何のためにこの海へ来たのか?。再び同じ時季に訪れた夢二は、途切れてしまった夢の続きでも見ようとしたのでしょうか。
ネットで調べてみると、一般的には「夢二が海鹿島に翌年来た時には、おしまさんは嫁いでいたので会えることはなかった」ということらしく、会いに来たら嫁いでしまっていて会えなかった、とか、いないことは分かっているのにここに来てしまった、とかいう夢二の寂しさを表した詩なのだと思います。
ですが、私が読んだ本には「夢二が海鹿島に翌年来た時には、おしまさんは嫁ぐことが決まっていたので、遠方から見るだけで直接会おうとはしなかった」とあり、この解釈だと、寂しさだけではなく、ちょっとした夢二の苦しさ・歯がゆさのようなものが含まれている気がします。
〈夢二の詩集『どんたく』の中の挿絵〉
夢二の片想いだったのか両想いだったのか。おしまさんは、夢二のことをどう思っていたのでしょう。
もしおしまさんが夢二と同じように想っていたのだとしたら、ここで待っているのはおしまさんで、「まてどくらせど来ぬ人」は、すぐそこまで来ていた夢二だよな。この詩は、おしまさんの寂しさを想像した詩なのか?
なんて、丘の上でボーッと想像してみたのであります。
この宵待草の三行詩は、港屋絵草紙店を出店した前年(大正2(1913)年)に、初の絵入りの詩集として出版した『どんたく』の中に掲載されたものです。しかし元々は明治45(1912)年に、雑誌で「さみせんぐさ」の筆名で発表された、少し長い原詩がありました。
遣(や)る瀬(せ)ない
釣鐘草の夕(ゆうべ)の歌が
あれあれ風にふかれて来る。
まてどくらせど来ぬ人を
宵待草の心もとなき
『おもふまいとは思へども』
われとしもなきため涙。
今宵は月も出ぬさうな。
夢二はこの原詩から、わざわざ七五調の3行に縮めているんですね。
そして、「宵待草」の草って何?という議論があるようなのですが、オオマツヨイグサとか月見草とか、夜を待って咲かせる花なのだそうです。「待宵草」ではなく「宵待草」としたのは夢二のセンスによるもの。多分それは、夜に咲く花であれば何でも良いのだと思います。
宵待草という名前の「曖昧な」三行詩であることで、読み手に自由な発想が生まれる。
おしまさんへの想いの詩であることに変わりはありませんが、その3行に何を読みこむかは読み手の自由な想像で良いのだと思います。
この詩を読んだ私は、まんまと竹久夢二の罠にはまってしまった、ということなのかもしれません。
1911(明治44)年8月29日
夢を見てゐた、さめて海の音をきく。
とりとめもなき我心かな、松原へゆく。
人の家を遠く見る。
町へゆく姿を見る。
これはこの日に書かれた夢二の日記です。日記だというのに、とても詩的です。
〈銚子にはもうひとつ宵待草の碑がある〉
ちなみに宵待草の詩の発想が生まれた場所は、岡山もしくは会津という説も以前にはあったようなのですが、現在はこの海鹿島ということで落ち着いているようです。
残念ながら、中央区という説は全くございません。
〈参考にした本・情報〉
★『岡山文庫171・夢二郷土美術館』楢原雄一/日本文教出版/1994
★『岡山文庫111・夢二のふるさと』眞田芳夫/日本文教出版/1984
★『どんたく』竹久夢二 /実業之日本社/1913
★『夢二日記1(明40年~大4年)』竹久夢二著/長田幹雄編 /筑摩書房/1987
★『国立国会図書館NDLイメージバンク』
(https://rnavi.ndl.go.jp/imagebank/)
★『岡山県ホームページ』
「港屋絵草紙店」ゆかりの地記念碑
★『銚子市ホームページ』 文学碑
銚子市の花(おおまつよいぐさ)