徳川の重要軍事機密 浜御殿の馬場のお話
う~ん。
扉を飾る写真としては、地味ですね。
樹木に囲まれた、空き地。
平坦な直線で140mほどあるでしょうか。
何の目的で造られた空間なのでしょう。
中央区にこんな場所あったでしょうか。
あるんですよ。
浜離宮恩賜庭園内の南側。
徳川将軍家の庭園として、海水を引き入れ潮の干満で趣を変える「潮入の池」と、鷹狩りの場として姿を留める「新銭座鴨場」の中程に位置する空間。
それこそが、「馬場跡」(Site of Riding Ground)なのです。
案内板をしっかり見ておかないと、この場所が馬場の跡だったのか分かりにくいです。
もっとも、特別名勝にして特別史跡である浜離宮恩賜庭園の中において、ここは一見空き地ですから、いわゆる見どころからは外れているでしょう。
でも、ちょっと待って。
木々の揺らめきの中に耳をすませば、遠い時代の馬のいななき、蹄の音、武者の疾駆する背中の旗指物の風切り音が感じられませんか。
馬場跡の中に新しい解説板を見つけました。
興味深い記述が、たくさんありました。
江戸時代、ここは将軍家の庭園でしたので、「浜御殿」としましょう。
八代将軍徳川吉宗公は、世界の動物に興味を持ち、オランダ商館長を介して、象、らくだ、孔雀など珍しい動物を輸入しています。
その中には、西洋馬(ペルシャ馬)も含まれていました。
さらに吉宗公は、外国人馬術師を招聘しています。
浜御殿に居住させ、家臣に洋式の馬の操作方法や飼育法を伝授させていたのです。
当時の馬は、人間に最も近くに生活する動物であり、情報をいち早く伝えるための手段であり、重量物を輸送する役割を担っていました。
そして戦闘の場面においては、騎馬軍団という進退自在な行動が可能な、精度の高い打撃装置となります。
国産馬に比べて、体格・脚力に優れた西洋馬を保有することは、当時においては優れた軍事機能を有することになったはずです。
馬場は武術鍛錬がなされる、軍事的な要素を強く持っていました。
堅固な浜御殿
※ この石垣の上に、櫓や塗り塀が築かれていたことを想像してみましょう。
浜御殿の馬場が、馬の飼育や西洋馬術の習得の場として使われたのは、堀と石垣に囲まれて海に向かって張り出した、江戸城の出城としての機能を果たす堅固な要塞であったからだと考えます。
外部からの侵入を防ぎ、重要軍事機密の漏洩を防止する。
浜御殿の奥深く、鴨場と潮入の池に挟まれ樹木の中に潜む馬場は、その築かれた位置からも重要性を推し量ることができます。
考えすぎでしょうか。
馬場の広さを把握する資料にたどり着かずにいたのですが、馬場の南面に設置されていた解説板から、概要を知ることができました。
土手と排水溝によって囲まれた、南北145m(約80間)、東西14m(約8間)の広さ。
凄いです。
ということは、ほぼ江戸期のままの姿を、いま眼前に見ることができるのです。
浜御殿内に二箇所の馬場
先ほどの解説板には、「馬場は二箇所あった」との記載がありました。
こちらを内馬場と呼び、延遼館跡の東側遠路を表馬場と呼んでいたそうです。
馬場の跡だと改めて言われれば、このまっすぐな通りの向こうから、砂煙を巻き上げて疾駆する馬の姿が浮かびあがってくるような気がしてきます。
吉宗公ゆかりのトウカエデ
内馬場を東に出て、潮入の池を臨むところに、吉宗公が中国から取り寄せたと伝わる、唐楓の巨木が高く広く枝葉を伸ばしています。
いま若々しい薄緑の葉が、輝きを増しているところです。