ふーちゃん

越前堀児童公園のラジオ体操

あちこちから三々五々集まってきて6時30分にラジオ体操が始まります。

ラジオ体操第一 ➁ラジオ体操第二 ③厚生体操 ④みんなの体操 と、ラジオと会長の掛け声で思いっきり身体を動かします。明正ラジオ体操会は、3月3日から12月20日まで、日曜日を除いて、毎朝4種類の体操をしていて自由参加です。夏休みには、子ども達や保護者も参加して大賑わいです。

「厚生体操」ってなに?と思いますよね。厚生体操は、大日本厚生体操といって、昭和16年に厚生省が作った体操のようです。①背伸び ➁肩叩き ③肩回し ④首を回す ⑤胸反らし ⑥横まげ ⑦天つき体操 ⑧足の屈伸 ⑨深呼吸 です。⑦の天つき体操とは、しゃがんで両手をグーにして、「ヨイショ」の声で、その手を空に、大きくパーと開きます。なんだか心も晴れ晴れしてきます。

日経新聞の「こころの健康学」に、認知行動療法研修開発センターの大野裕先生が次のように書いています。「ラジオ体操には、身体を動かすことで心身を健康にする効用があるのはもちろんだが、地域の人のつながりを強める働きもしていたのだろう。」と。ラジオ体操 万歳!

 

五月の明正小学校

五月の明正小学校 越前堀児童公園のラジオ体操

明正幼稚園が併設されている明正小学校は、新川地域の「心のふるさと」です。

明治期創立の霊岸島尋常小学校と越前堀尋常小学校が合併をして、昭和2年に東京市明正尋常小学校として開校しました。戦争で講堂を残して全焼したため閉校となり、児童は全員、八丁堀の京華小学校(現在は京華スクエアとなっている)に転校しました。

昭和26年9月に、中央区立明正小学校として復活し、翌年4月の入学式は新聞に掲載されたといわれています。しかし、時代は過ぎて児童数の減少が進んだため統廃合されそうになりましたが、親と地域の方々のお陰で存続することができました。そのように地域の方々と深くつながっている小学校です。

越前堀公園今昔物語

越前堀公園今昔物語 越前堀児童公園のラジオ体操

越前堀公園では、早朝からご近所の方々がお掃除をしています。クスノキ・イチョウ・ケヤキ・サクラ・ヤブツバキ等のほか、梅・柿・姫リンゴ・かりん等の実のなる木もあります。柿は渋柿で鳥も食べませんが、数年前、「公園の渋柿を食べる会」がありました。お土産のポリ袋に入った渋柿を、説明書に書いてある日に、ドキドキしながら袋を開け、食べてみましたら、なんと、「あま~い!」

さて、この写真の「越前堀児童公園 中央区」と書いてある下の丸い目のようなものは何でしょう。よく見ると、左に「東京市 越前堀公園」右に「昭和五年五月開園」と書いてありました。そうなんです。関東大震災の後に作られた復興公園のひとつだそうです。

戦後、公園では被災した方々がバラックを建てて生活をしていたのだと年配の方からお聞きしました。では、中央区の戦後の生活はどのようだったのでしょうと、ネットで検索をしてみました。すると、平成25年度「中央区 戦中・戦後の生活」がありました。そのほかにも年度別に「戦中・戦後」の食糧事情と配給制度、教育、遊びなどの資料がありますので、一度検索していただけたらと思います。

https://www.city.chuo.lg.jp/virtualmuseum/heiwazigyo/shiryoshitu/kikakutenjishitsu/index.html

明治、大正時代の霊岸島は下町商業の中心でした

明治、大正時代の霊岸島は下町商業の中心でした 越前堀児童公園のラジオ体操

この写真は越前堀公園の一隅です。狭いのですが、飛び石もあってちょっとした庭園です。手前には、越前堀の石垣石の説明などがあり、奥に行くと「霊岸島之碑」と「霊岸島の由来」の説明板があり、江戸時代から現在までの歴史・町名の変遷が書かれています。機会がありましたら是非お立ち寄りください。

一般庶民の町だと思っている新川ですが、「明治、大正年間には、多額納税者も多数居住して、検潮観測所もあり、湾内海運の発着地、倉庫地帯として下町商業の中心であった。」とその説明板に書かれていました。江戸時代に始まった舟入堀の造築によって、江戸と上方間で、酒、醤油、灯油等の日用品の海上輸送が盛んにおこなわれていたようです。

また、私達が子供の頃、隅田川寄りの広大な敷地に、三菱倉庫と住友倉庫があって、大きなトラックが荷下ろし等をしていました。また、住友倉庫の事務所棟はしゃれた木造2階建てでしたので、それを見た北海道の方が「小樽みたい」と言われたことをふと思い出しました。