日本橋界隈
神田祭が終わり、激しく祭ロスのやすべえです。
前回の投稿では、記事の冒頭に写真を入れないと、サムネイルが表示されないということに気付いていなかったという、痛恨のミスをおかしてしまいました。以後、気を付けます。
さて、数年前の春のことになりますが、三越日本橋本店に、「越後屋、お主も春よのう」という垂れ幕が下げられたことがありました。これ、時代劇ではお馴染みの台詞、「越後屋、お主も悪よのう。ハハハ。」、「そういう、お代官様こそ。フフフ。」から来ていることは明らかです。時代劇を観て育った私には、このキャッチコピーが可笑しくてたまりませんでした。SNSの発達で、今は知っている人も多いと思いますが、越後屋というのは、三越百貨店の旧い時代の名前です。三井越後屋呉服店の三と越で三越。冒頭キャッチコピーの越後屋というのは三越自らを指します。越後屋は、時代劇の中では悪徳商人のイメージが強いですが、実際は人々に愛される百貨店。越後屋と三越のイメージのギャップを逆手に取っているというわけです。今日の日本橋周辺は、神田祭の賑わいが過ぎ去り、穏やかな日常に戻った様子でした。神田祭が終わると春も終わり、もう初夏です。
三井越後屋呉服店は、時代小説の中では、葉室麟著「乾山晩秋」(乾山晩秋に収録、角川書店)に登場しています(作品中では「三井呉服店」)。絵師・尾形光琳の弟、尾形深省は、思い掛けず兄と縁のあった女・ちえとその子・与市を世話することになります。勤勉な商人に成長した与市が反物を納めにいった先が三井呉服店で、三井の主人に気に入られた与市は三井の店に入ることになります。
また、葉室麟著「潮鳴り」(詳伝社)に登場する俳諧師の咲庵は、もとは江戸の呉服問屋、三井越後屋の大番頭を務めた人という設定です。咲庵は、俳諧師になるために身勝手に店を辞め、家族を不幸にした過去を深く後悔しています。一方、主人公の伊吹櫂蔵もまた、自らの失態の末に家督を譲った弟が切腹して果てるまで弟を顧みようともしなかったことを深く悔やんでいます。櫂蔵は弟の無念を晴らすために再び出仕することを決め、商人の世界を知る咲庵に助けを求めます。咲庵はその申し入れを一度は断るものの、昔の力を振るうことが家族への罪滅ぼしになると櫂蔵に説得され、申し入れを受け入れます。
三井本館
三越日本橋本店の隣に在るのは、三井本館。外壁に取り付けられた「コリント式オーダー列柱」が目を引きます。
日本橋
三越日本橋本店から南に歩いて直ぐのところに日本橋川に架かる日本橋があります。最初の橋が架けられたのは慶長八年(1603年)で、現在の石造りの橋は明治四十四年(1911年)に架けられた十九代目の橋です。日本橋が木の橋だった頃は、「火事と喧嘩は江戸の花」とも言われる火事の多い江戸だけに火災で何度も焼け落ちましたが、現在の橋は関東大震災の震災にも第二次世界大戦の戦災にも負けなかった橋です。二連のアーチ橋で大変美しい橋です。
麒麟と獅子のブロンズ像
親柱に刻まれた「日本橋」の文字は最後の徳川将軍、徳川慶喜の筆によるもの。橋に施された麒麟と獅子のブロンズ像は建築家の妻木頼黄がデザインしたもので、中央の麒麟像は完成当時の東京市の繁栄を表現し、四隅の獅子像は守護を表しています。麒麟像は、映画化もされた、東野圭吾の小説「麒麟の翼」(講談社)によっても広く知られることになったと思います。写真に収める人の姿も多く見られます。
双十郎河岸
橋のたもとには、水上バス乗り場があり、二人の歌舞伎役者、坂田藤十郎と市川團十郎から名を取って、双十郎河岸の名が付けられています。
日本橋は知名度では日本全国に知られる橋ですが、時代小説の中で登場することは稀で、登場回数では隅田川に架かる両国橋や竪川に架かる一ツ目橋(現一之橋)に遥かにおよびません。日本橋は高級店が集まる商業地域で江戸城にも近く、貧しい市井の人々や禄の少ない侍が住む場所からは離れているため、時代小説とは縁遠い場所になっているためでは無いかと考えられます。そんな登場回数の少ない日本橋ですが、藤沢周平著「海鳴り(上)、(下)」(文春文庫)の中では登場しています。主人公の小野屋新兵衛が紙問屋という時代小説の主人公には珍しいお金持ちで、お店が日本橋本石町に在るために登場の機会に恵まれました。その他には、池波正太郎著「引き込み女」(鬼平犯科帳(十九)に収録、文藝春秋)に登場しています。