関東大震災復興100年、「江戸橋」にみるその歴史
上記の写真は、「江戸橋」を江戸橋南の歩道橋から北に向って撮影した写真です。「江戸橋」は、日本橋川南岸の中央区日本橋と北岸の中央区日本橋本町に架かり、「都道316号線昭和通り」を通す橋です。上方には首都高速道路の江戸橋ジャンクションがあります。今年は関東大震災から100年になります。復興の象徴ともいえる「昭和通り」で日本橋川にかかる「江戸橋」に焦点を当て、その歴史をひもといてみたいと思います。
上の図は、歌川広重の『名所江戸百景』「日本橋江戸ばし」で「日本橋」から「江戸橋」を望んだ浮世絵です。創架年月は不明ですが、1632年(寛永9年)の「武州豊島郡江戸庄図」には江戸橋が記載されています。また1631年(寛永8年)に造られたという資料もあります。橋名についても西方の日本(橋)に次ぐ位置にあるから江戸とつけたとか、江戸はこの辺の名称だったろうとも伝えられていますが、いずれも定かではありません。
(写真提供:京橋図書館)
1875年(明治8年)に、上記の石造りアーチ橋に架け替えられます。
(写真提供:京橋図書館)
1901年(明治34年)10月に上記の鋼上路アーチ橋に架け替えられます。この時までの「江戸橋」は、現在位置より60m程川下の旧楓川と日本橋川の合流点にありました。「日本橋ダイヤビルディング」の東側になります。
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生します。この地震は、11時58分にマグニチュード7.9の本震、3分後にマグネチュード7.2、5分後にマグネチュード7.3に3度に渡って大地を揺るがした「三つ子地震」でした。地震の被害をより深刻にしたのは、揺れの直後に発生した大火災です。中央区も、地震の震度は「5強」で、全域が江戸前島の地域にあり地盤は強固のため、揺れによる被害は少なかったのですが、火災により、中央区のほぼ100%が焼失して、焼け野が原になってしまいました。帝都の復興のため、国が主体となり、区画整理、幹線道路の整備、橋の整備、公園の整備等々が行われますが、その中の道路整備計画の目玉となるのが、「昭和通り」と「大正通り(靖国通り)」です。「江戸橋」は「昭和通り」が日本橋川を横断するために架けられた橋です。民家及び商店等が密集していましたが、焼け野が原になった土地を区画整理して、新しい道路をつくったのが、「昭和通り」であり、その延長線上にあるのが「江戸橋」です。下の図に区画整理前と区画整理後の対象図を掲載しましたので、ご理解いただけると思います。
(出典:中央区沿革図集[日本橋篇],橋名を加筆しています)
上の図は、区画整理前の図です。
(出典:中央区沿革図集[日本橋篇]、橋名を加筆しています)
上の図は区画整理後の図です。左から右への黒く塗りつぶされた線が、「昭和通り」です。以前道路がなかった場所が、区画整理により、道路となったところがわかります。また「江戸橋」も60mほど上流に新しく架けられました。
(写真提供:京橋図書館)
上記の写真は、1957年(昭和32年)頃の、まだ高速道路に覆われていないときの写真です。
1925年(大正14年)1月4日に起工し、工期1076日を要し、1927年(昭和2年)12月15日に竣工しました。総工費は828,850円(約40億円)でした。型式は、鋼ソリッドリブ・アーチで橋長63.4m、幅員44mです。
上の写真は、現在の「江戸橋」です。隅田川に架かる橋を除き、神田川・日本橋川・亀島川に架かる橋の中では最大の橋だと言えます。また首都高速道路の都心環状線、向島線、上野線が交わる地点でもあり、交通の要衝となっています。歴史をひもとけば、現在の「江戸橋」は、大震災後、新設された道路に新しい橋が架けられたということで、それ以前の橋とは別物だと言えるかもしれませんが、そのような歴史に思いを致し、「江戸橋」を見るのも良いかもしれません。
参考文献:中央区沿革図集[日本橋篇]東京都中央区教育委員会
中央区の橋・橋詰広場(中央区文化財調査報告書 第5集)
東京都における関東大震災の慰霊碑・記念碑・遺構(その2)
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