みなとっこ日記 佃ののんびり鳩
みなとっこ日記
佃を歩いていたら、鳩がのんびりしていました。
すっかりくつろいで、まんまるになっています。
かわいらしくて、おもわず足をとめてみつめてしまいました。
ここは、佃リバーシティ21の遊歩道。階段を下りれば隅田川テラスです。
北には中央大橋、南には佃大橋が架かり、対岸には、亀島川水門とそのむこうに南高橋。そして江戸時代より”鉄砲洲”と称された一帯をのぞむことができます。湊・明石町・築地…ここは海の玄関口、江戸湊でした。
佃の歴史は、徳川家康との縁で、江戸にくだった摂津国西成郡佃村の森孫右衛門ひきいる漁師たちが、正保元年、幕府より拝領した鉄砲洲の東干潟百閒四方に島を築いたことにはじまります。
翌年には、江戸市中とを結ぶ渡し船が出て、近年まで、江戸情緒の名残りとして愛された、300年の歴史をもつ「佃の渡し」のはじまりとされています。
明治9年には、渡し賃ひとり5厘をとったことから、「五厘の渡し」とも呼ばれました。
昭和2年には、東京市の運営する無料の曳舟渡船にかわり、ポンポン船の愛称で親しまれました。
石川島造船所の繁栄にともない、一番多いときで1日70往復もするほど、佃島渡船は大忙しでした。
人々の生活にとけこみ、古き佳き時代の象徴として、おおくの人々の記憶に深く刻まれたのです。
そんな佃島渡船も、昭和39年、東京オリンピックの開催に向けてまちが急速に変化するなかで、佃大橋の完成とどうじに、その姿を消しました。
「佃煮」も、もちろんこの地で生まれました。
漁師のおかみさんたちが、一日中船のうえに置いておいても腐らない食料を、と考えたのがきっかけで、小魚を塩水で煮詰めて作ったのです。
やがて下総国から醤油が入ってくると、醤油で煮詰めるようになりました。
これが、こんにち親しまれている佃煮の味です。
佃の住吉神社は、日本橋魚河岸の守護とされ、おおくの商人や水夫たちから信仰を集めました。
茅場町の伊勢太という料亭の番頭さんが、ある日参拝のおり、佃煮を振舞われたところ、そのおいしさに感動し、ぜひ江戸市中でだいだいてきに売りだしたいと考えたのが大当たり。
その後、多くの人々に佃煮を広めるきっかけになったといいます。
佃には、いまも江戸時代から続く佃煮の老舗が残っています。
佃リバーシティ21の遊歩道には、季節の花があふれています。
水面に、キラキラと初夏の日差しがおどります。
「このあたりもだいぶ変わったわねぇ…」
そんなふうに言っているように見える、鳩のうしろ姿。
「そうですね」
と、湊っ子。
「わたし、このまちが好きよ」
「はい、私もです」
木漏れ日がやわらかな影をおとす、静かな午後でした。
中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん
第184号 令和5年6月26日