みなとっこ日記 アメリカ公使館跡記念碑のなぞ
みなとっこ日記
聖路加ガーデンの親水公園にある「アメリカ公使館跡の記念碑」。
明治8年から同23年まで、この地にはアメリカ公使館がありました。
あじさいに彩られた、盾型の星条旗。
湊っ子は、素敵なものをみつけました。
なんと、盾のなかに、光の星が浮かびあがっていたのです。
格子状の模様のすきまから、記念碑のなかの空洞が見えます。星形にくりぬかれたその部分に、太陽の光がさしこみ、暗闇のなかを照らしたのです。
明治元年の東京開市により、いまの明石町一帯は「築地外国人居留地」になりました。教会やミッションスクールの立ち並ぶ、異国情緒あふれる町並みが、そこにはあったのです。
記念碑は、約80センチ四方で、小松石でできています。図柄は「五稜の星」「盾型の星条旗」「白頭鷲」の3種類です。聖路加国際病院の中庭、トイスラー記念館のまえに3基、聖路加ガーデンの親水公園に2基あります。
さて、明治時代、築地外国人居留地にあったという、アメリカ公使館。なぞに包まれています。
木造二階建ての、クリーム色をした瀟洒な洋館だったとききますが、外国人居留地の遺構そのものが少ないなかで、アメリカ公使館の面影をとどめるものは、この石造りの記念碑以外に、なにもありません。
ところで、この記念碑は、当時どのような役割を果たしていたのでしょうか…。
「中央区の区民文化財 中央区教育委員会 平成3年刊」のなかでも、
‐以下引用
「ただ残念なのは、これらの石が何時、何のために作られたのかが全く不明なことです。」
‐
と、その不思議を述べています。
飾りだったのか、シンボルだったのか、それならば、敷地内のどの場所に、どのように配置されていたのか。
「築地外国人居留地‐明治時代の東京にあった外国— 雄松堂出版 平成14年刊」のなかで、著者の川崎晴朗氏は、こう推理します。
-以下引用-
「1876年7月4日は米国独立百周年にあたる。ビンガム公使は、(中略)日本人の石工に、記念石を刻ませることを思い付いたのではないか。米国を象徴する星、鷲、そして盾のデザインを示して、1876年7月までに、各デザインにつきいくつかずつを小松石に彫るよう注文したことであろう。
(中略)石は公使館の庭に運び込まれ、公使夫妻や令嬢たちの指示通り築山のまわりなどに据え置かれる。私は、明治初年ののどかな時代、築地の一隅でそのような光景が展開されたのではないかと想像するのである。」
-
すばらしいですね。その頃の景色が、そして人々の表情までが、色彩をともなって目のまえに広がるようです。
また、「中央区区内散歩—史跡と歴史をたずねて‐ 中央区企画部広報課 平成4年刊」のなかには、こうあります。
‐以下引用
「庭は実によく手入れされ、毎朝星条旗を掲げたという小高い場所が保存されていますが、その下のほうに四角の大きな石に彫刻したものが、いくつか置かれているのですが、何に使ったのかはよくわかりません。
(中略)恐らくはハリスが公使館として使用していた麻布善福寺から移転の際運んだものではないかとも言われていますが」
‐
こちらは、また違った説ですが、この文章が書かれた時点で、まだアメリカ公使館跡に、築山が残っていたことを証明しています。
そして、ふたつめのなぞ。
アメリカ公使館の写真も、そんなには残っていないようです。「築地居留地—近代文化の原点— 築地居留地研究会 」という本のなかに、そのモノクロ写真が収められています。
ところが、この建物、おなじ築地外国人居留地に存在した建物と、まったく同じなのです。
そうです、「ホテル・メトロポール」です。
横浜ユナイテッド・クラブの所有するホテルで、じつはアメリカ公使館が明治23年に移転したあと、建物をそのまま使用し、ホテルにしたといいます。
さて、みっつめのなぞです。
アメリカ公使館跡の記念碑は、じつは、ほんとうは全部で8基あるのだそうです。
あとの3基はどこへ行ったのでしょうか…。
それは、昭和59年に、赤坂のアメリカ大使館に寄贈されたそうです。ぜんぶの図柄をひとつずつ。今も、大使館の前庭に飾られているそうです。
そうすると、アメリカ公使館の建物がホテル・メトロポールになったあとも、さらに時代が変わっても、長い年月のあいだ、ずっと築山に、この記念碑が置かれていたことになります。
いいですね、いい意味で、ゆるやかな時代だったと思います。どかしてしまおうとか、捨ててしまおうとか、考えずに、誰かの思い出が、誰かの居場所にころがっている、それをお互い認めてしまえるような、そんなのどかな時代。
それがまちの表情になり、”まちの記憶”につながるのでしょう。
先述の「中央区の区民文化財」では、このような説明文もありました。
‐以下引用
「公使館があった場所には、のちにトイスラーが住居をかまえ、また近年まで聖路加病院の看護婦寮が建っていましたが、目下(平成三月三月現在)、再開発用地として土木工事が進められています。その場所には工事前、築山のある庭があって、(中略)小松石でできた石碑が置かれていました。」
‐
土木工事というのは、まさに、聖路加ガーデンの建設工事のことでしょう。
ほんとうに、そこには、築山のある庭があったのですね。
そのページには、写真も載っていました。現在、私たちが目にするような、整備された記念碑の風景ではなく、緑あふれた自然のなかに、ほんとうにポツン、ポツン、と置かれているような、そんなようすでした。
そしてさらに、、「中央区区内散歩—史跡と歴史をたずねて‐ 中央区企画部広報課 平成4年刊」のなかには、まだ聖路加ガーデンが建つまえの、それこそ、アメリカ公使館がそこにあったことを、かすかに物語る風景として、
—以下引用
「ささやかな洋風の教会か何かに思える建物や塀でさえぎられた場所があります。この中こそ、明治時代にあったアメリカ公使館の跡なのです。」
‐
という記述があります。この文章が書かれたのは、平成3年頃のようです。
しかしこの章のさいごには、同年12月には、その面影さえまったく消えてしまったことが追記されています。
いま、アメリカ公使館のあった場所をながめると、新緑深い木々のむこうに、聖路加ガーデンが空に向かっています。
ですが、ほんのわずか、平成の時代まで、外国人のまちだった記憶が残っていたのですね。じつに、100年ものあいだ…。
令和となった今でも、明石町を歩くと、どこか異国的な風を感じることがあります。
それは、いつの時代も地域のランドマークとして愛される、聖路加国際病院の聖ルカ礼拝堂のたたずまいや、今も昭和2年の建築当時のままの姿を残す、築地カトリック教会、そして数少ない遺構である、ガス灯とイギリス積みの煉瓦塀、そしてこの、アメリカ公使館跡の記念碑が、まちの記憶をとどめているからかもしれません。
そんなまちの記憶が、私たちに語りかけるとき、きっと、私たちは中央区というまちを、もっと好きになるのだと思います。
中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん
第185号 令和5年6月27日