たけちゃん

行ってきました!本の森ちゅうおう
シーボルト来航200年記念講演会
「子孫が語るシーボルト父子伝」

こんにちは「たけちゃん」です。先日のブログでお知らせした通り8月13日に「本の森ちゅうおう(京橋図書館・郷土資料館)」でシーボルト来航200年記念講演会「子孫が語るシーボルト父子伝」が開催されました。

メインスピーカーはシーボルトから数えて六代目の子孫にあたる関口忠相さん。その他、中央区の山本 泰人区長、本の森ちゅうおう館長の五所和弘さん、女優の鳳 恵弥(おおとり えみ)さんがご挨拶されました。なかなかの豪華な顔ぶれでした。

山本区長は新川・箱崎エリアで行われた深川祭の帰りということで、粋な神輿半纏で登場され会場を盛り上げました。

関口忠相さんにつながるシーボルト家の系譜図

関口忠相さんにつながるシーボルト家の系譜図 行ってきました!本の森ちゅうおう
シーボルト来航200年記念講演会
「子孫が語るシーボルト父子伝」

関口忠相さんシーボルトの次男「ハインリッヒ・シーボルト」の子孫。学生時代に起業し、コンサルタントとして数々の企業の顧問を務める傍ら、父親で研究者の関口忠志氏を助け、2008年のハインリッヒ・シーボルト没後100年の際にシーボルト研究家を中心に日本シーボルト協会を設立。

そんな関口さんの説明をもとに歴史を遡ってみましょう。ちょっと複雑ですが、頑張ってついてきてくださいね(笑)。※くわしい系譜図はこちら

シーボルトは日本に来日後にお滝さんと結婚し一子(お稲)をもうけますが、その後に国外追放となり、帰国後にヘレーネと結婚をします。ヘレーネとの間には三男二女が生まれ長男は「アレクサンダー」、次男はハインリッヒ関口さんは次男ハインリッヒの子孫にあたります。

アレクサンダーシーボルトの30年ぶりの再来日(1859年)の際に12歳で初来日。幕末に在日英国公使館の通訳を務めた後、明治時代には井上馨外務卿の特別秘書になりました。大河ドラマ『西郷どん』や『青天を衝け』にも登場していますね。

ハインリッヒは兄アレクサンダーの再来日に同行して1869年(明治2年)18歳で初来日を果たしました。アレクサンダーは1867年パリ万博に派遣された徳川昭武使節団に同行し欧州に一時帰国していたのです。日本が中央政府として初の正式参加となったウィーン万国博覧会(1873年)では、政府の依頼により兄とともに出品の選定に関わり、通訳としても活躍。シーボルト兄弟が関わった日本館は連日の大盛況で、成功を収めました。この様子は『青天を衝け』にも描かれていましたね。

ハインリッヒは兄と同様に日本と諸外国との外交にも助力しましたが、父のシーボルトと同様に調査や研究が好きで、日本の歴史や文化、骨董(古物)にも造詣が深く、日本の好古家とも交流がありました。※当時はまだ考古という言葉がありません。日本の好古家たちは古物会などでハインリッヒと交流する事により、当時最先端であった欧州の考古学を学び、ハインリッヒは先史時代の遺物の名称や、どこに遺跡があるかなどを学んだとの事。「考古学」と言う言葉もハインリッヒが書いた『考古説略』が基になっているとも言われています。また古物会の参加者には 9代目 市川團十郎もおり、ハインリッヒは西洋に歌舞伎の魅力も紹介しました。

ハインリッヒは日本橋の商家の娘「岩本はな」と1872年結婚。はなは22歳、ハインリッヒは21歳でした。はなは芸事の達人としても知られ、長唄、琴、三味線、踊りも免許皆伝の腕前であったと言われています。

1873年(明治6年)、二人の間には男の子が生まれますが、取り上げたのは産院を開業していたシーボルトの娘でハインリッヒの異母姉の「楠本イネ(日本人女性初の産科医)」でした。イネはシーボルト兄弟の支援で築地に産院を開業したとされていますが、その場所は今でも不明だそうです。関口さんは「どこかの家にイネさんの産院の場所を特定できる手紙などが残っているかもしれないので、その時はお知らせください」と話していました。今でもシーボルトに関する研究は続いているようです。

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトってどんな人

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトってどんな人 行ってきました!本の森ちゅうおう
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「子孫が語るシーボルト父子伝」

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796~1866)は、ドイツの地方都市ヴュルツブルクに生まれました。シーボルト家は、学才に秀でた人物を多数輩出する医学界の名門貴族です。

1815年にヴュルツブルク大学に入学したシーボルトは、博物学に造詣が深いデリンガー教授の邸宅に住み込み、教授宅に集っていた様々な分野の学者たちとの知的交流によって、あらゆる学問を学びます。

1820 年に大学を卒業したシーボルトは、開業した医院を2 年も経たずに廃業。叔父の旧友により、オランダ領東インド陸軍外科少佐を斡旋されバタビア(現在のジャカルタ)へ。

1823 年にバタビアへ到着したシーボルトは、医師としての技術、博物学に対する深い造詣を高く評価され、オランダ領東インド政庁総督「カペレン」の目に留まります。そして交代の時期を迎えていた長崎出島商館付き医師の後任として白羽の矢が立ったのです。バタビア出港から45 日間の大航海、とうとう長崎に入港したシーボルト。この震えるような感動は、著作『Nippon』に、いきいきと語られています。

「長崎の町が近づくにしたがい、湾はいよいよ活気を帯びる。船の左右にはいろいろな景色が見える。風はなぎ、空には一片の雲もなく、おかげで、こよなく美しい光り輝く風光を眺めることができた。気持ちのよい住宅の建ち並んだ、たとえようもなくすばらしい岸辺が一行を歓迎してくれる。なんと豊かな丘か、なんと崇高な神社の森か。生き生きした緑したたる山の頂、それはまことに絵のように美しい」

その後1829年にいわゆる『シーボルト事件』が発端となり、シーボルトは無実を訴えると共に妻子と共に日本に残ることを願い帰化申請をするが認められずに国外追放、再入国禁止の判決となり欧州へ。帰国後も日本研究を続け、『Nippon』『日本動物誌』『日本植物誌』など多数の日本に関する書籍を執筆。63歳となった1859年、幕府の外交顧問などとして再来日し、愛する妻子とも再会を果たすのでした。

本の森ちゅうおうへのアクセス

本の森ちゅうおうへのアクセス 行ってきました!本の森ちゅうおう
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「本の森ちゅうおう」は、2022年12月にオープンした複合施設です。京橋図書館や郷土資料館の他、屋上庭園やカフェもあり、子どもから大人まで楽しめる施設です。

★東京メトロ日比谷線・JR線 「八丁堀」駅 A3出口から 徒歩1分

★東京メトロ有楽町線 「新富町」駅 出口5から徒歩6分

★都営浅草線 「宝町」駅から A1出口から徒歩7分

★東京駅八重洲口から徒歩15分

※写真撮影、ブログへの掲載に関しては関口忠相さん、本の森ちゅうおう館長の五所和弘さんに承諾いただきました。