クヌート

銀座に「カフェー」がやって来たころ

琥珀色の液体を口に含めば、そこは異郷?(銀座「カフェーパウリスタ」で)

 

この秋、ヨーロッパ屈指のコーヒー・チェーン「コスタコーヒー」の旗艦店が銀座にオープンします。振り返れば今日のカフェ・ブームを牽引してきた「スターバックス」の日本での1号店誕生も、ここ、銀座でした。そもそも、モダン都市の憩いの場であり社交サロンでもあったカフェ文化が花開いたのが、明治末から大正、昭和初期にかけての銀座。その揺籃期を彩った店の面影を、関係者の著作などから追ってみましょう。

 

日本でいわゆる「カフェー」なる店が名乗りを挙げたのは1911年(明治44年)。奇しくも3つの店舗が相次ぎ銀座で店開きしました。一番乗りと目されるのが3月に京橋区日吉町20に誕生した「カフェー・プランタン」。今は高級クラブなどが複数入居する銀座8-6-24のビルあたりが、その跡地と思われます。

 

折しも、新進気鋭の画家や文学者、俳優たちが「パンの会」を結成し、鎧橋のたもとに出来たばかりの西洋料理店「メイゾン鴻乃巣」などに集って芸術論に気炎をあげていた時代。洋行帰りの若者もチラホラ現れ、ヨーロッパの小粋なカフェーへの憧れが募る中、洋画家の松山省三が仲間を募って創業しました。

 

 銀座に「カフェー」がやって来たころ

「カフェー」を名乗る店が無かったころ、若い芸術家たちの溜まり場となっていた「メイゾン鴻乃巣」の説明板

 

フランス語で「春」を意味する店の名付け親は、劇作家の小山内薫です。もともとフランス語の「自由」にちなんだ名前を考えていたものの、折あしく大逆事件が起きたばかり。そこで店名の左翼的な印象により当局からニラまれては…との懸念から変更したそうです。

 

なにしろ素人同然の経営陣に、日本では前例のない業態とあって、まずは常連客づくりからと、当初は会員制組織を目論みました。黒田清輝、森鴎外、永井荷風、高村光太郎、北原白秋、谷崎潤一郎…と、メンバーはそうそうたる顔ぶれです。

 銀座に「カフェー」がやって来たころ

「カフェー・プランタン」に集う吉井勇らのグループ(京橋図書館所蔵)

 

メニューの中心はもちろんコーヒーでしたが、カクテルなどの酒も供し、サンドイッチも名物でした。いかにも日本的だったのは、サービス係に〝女ボーイ〟を配したこと。とはいえ、客のお目当ては女性ではなく、知的な刺激や心地よい寛ぎを約束するサロン的な雰囲気が好まれたようです。

 

集まった客は芸術家のみならず新聞記者、学生、さらには新橋芸者までも。当時の写真からは、壁にも天井にも落書きがあふれ、若いエネルギーに満ちた溜まり場的ムードが見て取れます。

 

この「プランタン」開業に遅れること数か月、同じ1911年8月には築地精養軒が経営する「カフェー・ライオン」が登場しました。尾張町交差点、つまり中央通りと晴海通りが交差する角の、現在、一階に日産自動車のショールームがある銀座プレイスの所です。

 

 銀座に「カフェー」がやって来たころ

銀座プレイスの地下には、経営が変わりビアホールに特化した「ライオン銀座五丁目店」が入居している

 

三階建ての大規模な構えで、一階が酒場、二階にはレストランと余興場が設けられ、歌や踊りも披露されました。そして三階が特別室。画家や詩人が口角泡を飛ばす、少々気取った雰囲気の「プランタン」に対し、飲食業のプロの手になるこちらは、立地の好条件も加わって敷居もあまり高くはなく、政・官界から知識人、商家などの家族連れまで幅広い集客に成功したようです。

 

売り物は、一階に据えられたブロンズのライオン像のパフォーマンス。ビールの売れ行きが一定量に達すると、「ウォーッ」と吠え立てる仕掛けで、景気づけに一役買ったといいます。経営センスの良さは、これにとどまらず、季節ごとにイベントを工夫するなどして、たちまち人気スポットに躍り出ました。

 

 銀座に「カフェー」がやって来たころ

「カフェー・ライオン」で客をもてなす女給たち(京橋図書館所蔵)

 

ある報告によると、女給の数はざっと30人で、いずれも美人ばかり。そろいの着物に白エプロン姿で、上品な雰囲気だったそうです。しかも、少し品行が悪いと、すぐクビにされたとも。ただ〝つつましやか路線〟に徹した挙句、派手目な女給は次々に積極的なサービスで売るライバル店に引き抜かれていったというエピソードが残っています。

 

こうした「ライオン」の大衆化作戦は、時代の先端を行く文学青年たちには物足りなく映ったのか、この店の雰囲気を「卑俗」と切って捨て、遠ざける傾向も生まれたようです。人々のカフェーに求めるものも様々というわけですが、では三番手として1911年の12月に開店した「カフェーパウリスタ」の場合は——。

 

この店が想起させるのは、フランス…と同時にブラジル。創業者の水野龍は日本人のブラジル移住事業に尽力した人物で、その礼にと、サンパウロ州政府からコーヒー豆の無償供与を受けたのを機に、日本でコーヒーの普及活動に乗り出したことが、カフェー開設の背景となったのです。ちなみに「パウリスタ」とは「サンパウロっ子」の意。

 

選んだ土地は南鍋町2-13で、福沢諭吉がつくった社交クラブや米系百貨店が入居する現在の交詢ビル(銀座6-8-7)の真向かいでした。そのビルの前身は、これも福沢が興した新聞社「時事新報」の社屋で、当時、記者だった菊池寛は来客のたびに「パウリスタ」でコーヒーを飲み、その数、1日5、6杯は下らなかったため、始終ダブついた腹を抱えて閉口していたとの証言もあります。

 銀座に「カフェー」がやって来たころ

かつて「パウリスタ」があった場所は現在、洒落た子供服の店に

 

 銀座に「カフェー」がやって来たころ

現在の「パウリスタ」

コーヒー豆の仕入れ環境に恵まれたせいか、「パウリスタ」のコーヒーは割合、安価だったことも客の評判を呼びました。獅子文六は、「五銭のコーヒーと五銭のドーナッツを食べに、よく通った」と書いています(「ちんちん電車」)。

 

安さに加え、もうひとつ客の心をとらえたのが、美少年給仕たち。海軍士官の制服を模した純白の上着に黒ズボン姿で、「スリー・カッフィー」「ワン・アップルパイ」などと英語を交えて注文を通す様子が、異国情緒を掻き立てたと言います。

 

ユニークな点を挙げるなら、二階にあった女性客専用室の存在にも触れるべきでしょう。ここには平塚らいてうはじめ、雑誌「青鞜」を中心とする女権獲得運動の論客たちも毎晩のように訪れて、今を嘆き、未来を語り合ったそうです。このエピソードには「おまけ」がついており、現在、銀座8丁目に移転・営業中の「カフェーパウリスタ」では、青鞜つまりブルーのストッキングを履いた女性客には、コーヒーをタダで供するとのこと。知る人ぞ知るサービスで、該当者は年に一人か二人と聞きました。

 

こうして110年余り前に産声を上げた日本のカフェー文化は、大衆化、享楽化など様々に変貌しながら、やがて昭和に入り戦争の影が忍び寄るとともに凋んでいきます。いずれそのあたりの歴史をも辿ってみたいものですが…。

 

(*本文中、1911年頃の記述に関しては固有名詞以外でも「カフェー」と表記し、その他は「カフェ」と表しました)

 

<主な参考文献>

「女形芸談」 河原崎国太郎 未来社

「銀座細見」 安藤更生 中公文庫

「日本で最初の喫茶店『ブラジル移民の父』がはじめたカフェーパウリスタ物語」

長谷川泰三 文園社

「銀座カフェー興亡史」 野口孝一 平凡社

「夜の銀座史――明治・大正・昭和を生きた女給たち――」小関孝子 ミネルヴァ書房