銀座はどのようにしてできたのか?
銀座2丁目の銀座中央通り沿いに「銀座発祥の地」の碑があります。この碑には「慶長17年(西暦1612年)徳川幕府 興の地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置す。当時町名を新両替町と称せしも通称を銀座町と呼称せられ、明治2年遂に銀座を町名とする事に公示さる。」と記載されています。このことからわかるように、銀座という町名が正式に採用されたのは1869年(明治2年)のことで、江戸時代の町名の新両替町1目から4丁目までが銀座1丁目から4丁目に町名変更されました。更に明治5年に、三十間堀1丁目から3丁目までが銀座に統合されました。
しかし、当時の銀座は、上図のように京橋から銀座4丁目まで連なる現在の銀座中央通りの両側付近だけでした。
1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災で、銀座は焼け野が原になりました。大震災の復興事業の区画整理に伴い、復興局では町名整理を行うこととなり、銀座は今まで通り1丁目から4丁目までとすることになっていましたが、地元では早くから「大銀座建設」の気運が生まれていました。住民側としては、銀座通りを1丁目から8丁目とし、お堀に沿った西側を銀座西1丁目から8丁目に町名を変更したいというものでした。足掛け7年に及ぶ陳情・請願が繰り返された結果、1930(昭和5)年3月5日に、銀座1丁目から8丁目と銀座西1丁目から8丁目が誕生しました。
上図が1930(昭和5)年3月5日に誕生した銀座1丁目から8丁目と銀座西1丁目から8丁目までの地図です。
1941(昭和16)年12月8日から太平洋戦争が始まり、1945(昭和20)年8月15日に終戦を迎えますが、米軍の連日の空襲により、再び銀座は焼け野が原になります。それによって生じた戦後の瓦礫処理のため、銀座と木挽町の間の三十間堀が埋め立てられ(埋め立て完了は昭和27年7月23日)、銀座と木挽町が陸続きになることから、1951(昭和26)年8月1日それまでの木挽町1~8丁目が銀座東1~8丁目に改められました。木挽町は歌舞伎座の代名詞でもあり江戸開府以来の由緒ある地名でしたが、町民の大多数が強く希望し、区議会もこれを受けて議決しました。
上図が1951(昭和26)年に木挽町が銀座東に町名変更された地図です。
1962(昭和37)年5月に「住居表示に関する法律」が公布施行されますが、その実施により、1968(昭和43)年10月1日に、上図のように銀座西1丁目から8丁目を銀座1丁目から8丁目に統合させて新しい銀座になりました。
同じように、翌年の1969(昭和44)年4月1日に住居表示の実施により、銀座東1丁目から8丁目を銀座1丁目から8丁目に統合させて、現在の銀座1丁目から8丁目が誕生しました。
このように明治維新、関東大震災そして太平洋戦争と大きな出来事が起こるたびに銀座の地名は変わっていき、大きく発展していきました。その反面、江戸時代からの由緒ある名前は消えていきました。しかしそれは、銀座の繁栄を更に増すために「大銀座街」の構想の下に、町民の大部分が強く希望してできたものでした。これからも日本一の繁華街である銀座の今後を見守っていきたいと思います。