#文学散歩
石川啄木は本郷三丁目から銀座に通っていました
こんばんは。「たけちゃん」です。
11月上旬の三連休の中日に本郷三丁目付近をブラブラと歩いてきました。この付近は旧加賀藩のお屋敷跡に東京大学が建てられ、その影響からなのか数多くの文学者が住居を構えた地域です。
樋口一葉、宮沢賢治、徳田秋声、坪内逍遥、銭形平次の生みの親野村胡堂などは本郷三丁目付近に暮らしていた時期があります。中央区に縁がある文学者と言えば、石川啄木。啄木が明治42年から銀座の東京朝日新聞に勤めていた時は、本郷三丁目付近から都電で通勤していたようです。
はたらけど
はたらけど猶なほわが生活くらし楽にならざり
ぢつと手を見る
『一握の砂』などで有名な今回の主役は石川啄木。ざっと啄木の人生を振り返ってみましょう。
- 本名は石川一(はじめ)。岩手県生まれ。小学校を首席で卒業し、地元では神童と呼ばれる。盛岡の中学では4歳年上の金田一京助から文学の面白さを教えられ、文芸雑誌『明星』を熟読して与謝野晶子に影響を受け、また初恋にも夢中。
- 17歳の時に初めて“啄木”の号を名乗り『明星』に長詩を発表、注目される。
- 19歳(1905年)、処女詩集『あこがれ』を刊行!中学時代からの彼女と結婚したことで、両親と妻を養わねばならず文学どころではなくなる。
- 20歳、小学校の代用教員として働き始める(年末に長女生れる)。
- 21歳、北海道にわたり、函館商工会議所の臨時雇い、代用教員、新聞社社員などに就くが、どの仕事にも満足できず、函館、札幌、小樽、釧路を転々とする。
- 22歳、旧友の金田一京助を頼って再び上京。
- 23歳(明治42年 1909年)、前年に与謝野鉄幹に連れられて鴎外の歌会に参加したことをきっかけに、雑誌「スバル」創刊に参加。東京朝日新聞の校正係に就職。
- 24歳、新聞歌壇の選者に任命されるも、暮らしは依然厳しい。
- 26歳(明治45年 1912年)、年明けに夏目漱石から見舞金が届く。3月に啄木の母が肺結核で亡くなり、翌月に啄木もまた肺結核で危篤。4月13日午前9時30分頃、小石川区久堅町の自宅にて肺結核のため死去
啄木は文京区に縁があったようです。文学をもって身を立てるために3度も上京して暮らしました。1度目(1902年)は(現在の文京区)音羽一丁目八幡坂上。2度目(1904年)の上京は、処女詩集『あこがれ』の刊行が目的。最初に落ち着いたのは向ヶ岡弥生町。3度目(1908年)の上京では、北海道での放浪生活後に創作活動に専念するため、同郷の先輩金田一京助をたよって、菊坂町の「赤心館」に下宿しました。その後、近所の「蓋平館別荘」に移り、さらに家族を迎えて弓町(本郷三丁目駅付近)の「喜之床」(現・新井理髪店)に移ったということです。
上の写真は「蓋平館別荘」の跡地にある案内板です。いまではマンションになっていますが、啄木は「蓋平館別荘」の3階の3畳半の部屋で9か月間暮らし「富士が見える、富士がみえる」と喜んだそうです。
「蓋平館別荘」の跡地に近くには「赤心館」跡地、「喜之床」(現・新井理髪店)もあります。さらに大正・昭和の文豪や有名人(竹久夢二、谷崎潤一郎、宮本百合子、坂口安吾、大石七分、大杉栄など)が常宿にした「菊富士ホテル跡地(今はマンション建設中)」も近くにあり、文学好きの方はもちろん、文学にそれほど親しみがない「たけちゃん」のような街歩き大好き人間にも、心底楽しめるウォーキングエリアです。