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魚河岸の問屋に『米』がつく店が多いのはなぜ?

区指定有形財(古文書)金子家所蔵の「日本橋魚市場絵図面」(江戸時代後期)で、納屋裏通りに面する店の名を見ると、『米屋』という名前が気になります。魚には全く関係ない名前がなぜ店名についたのでしょうか?大正十年頃の「日本橋魚市場之図」を見ても、

米与根・米勝・米庄・米吉・米留・米虎・米梅という店名があって、『米屋』から派生したに違いないと類推できます。

森孫右衛門一族は日本橋川近くの大舟町(現:日本橋室町一丁目)付近を狙っていましたが、麻問屋や船関連の器具の店があって、そこには移転できませんでした。本小田原町に住んでいた石工が南小田原町(現:築地六丁目)に移転したので、不本意ながら本小田原町(現:日本橋室町三丁目)に移転し魚店を開きました。本小田原町への荷物の運搬は江戸橋から伊勢町に入り込んだ西堀留川を利用していました。この川は、米河岸・小舟河岸を経て伊勢町河岸(塩河岸)つまり本小田原町に至ります。大部分は米問屋へ米を運ぶ船のために使われていました。元禄時代までは米問屋はたいそう羽振りをきかし、本小田原町の住民とは犬猫までも争うほど仲が悪く対立していました。

しかし、その後魚河岸は大繁盛して、米問屋はうらやましくて仕方ありませんでした。

魚問屋『米〇』

魚問屋『米〇』 魚河岸の問屋に『米』がつく店が多いのはなぜ?

新規参入の魚問屋(米〇)

羽振りの良かった伊勢町の米問屋と本小田原町の住民は仲たがいし、両者の中は最悪だっといわれます。その後魚市場の景気がよくなり、両者の立場は逆転していきます。魚市場の盛況をうらやましく思った米問屋は商売替えをします。

『日本橋魚市場の歴史』(岡本信男著/木戸憲成著)によると、寛永13年(1636年)伊勢町米河岸の米問屋「米屋太郎兵衛」は商売替えをして本舟町に魚店を開きました。現在も仲卸業者に見られる商号「米〇」の源流はここに見られます。