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江戸の城と町を築いた伊豆石
~伊豆石のふるさとを訪ねました~

ライトアップされる常盤橋門跡の石垣。江戸時代にこのような美しい石垣がつくられたことにただ驚くばかりです。

 

5月ももうすぐ終わろうとしていますが、今年のゴールデンウィークは皆さまいかがお過ごしだったでしょうか。

私は、5月3日から2泊3日で伊豆へ旅行に行くことになったので、何か中央区と関係のあるブログネタはないかと考えたところ、江戸城の石垣に伊豆石が用いられていることを思い出し、伊豆石に関するブログを書くことにしました。

ということで、今回のブログは「江戸の城と町を築いた伊豆石 ~伊豆石のふるさとを訪ねました~」と題し、以下の構成で進めていきたいと思います。

まずは、江戸城などに残る石垣石を確認し(以下の<ブログの構成>「1-1~1-4」)、その後、それらが切り出された伊豆に残っている築城石をご紹介したいと思います(同「2-1~2-3」)。

なお、本ブログでは、江戸城などに残る石を「石垣石」と呼び、伊豆に残っている石を「築城石」と呼ぶことにします。

また、歴史の事実をそのままお伝えするため、各地の説明板などの文章については、できるだけそのままご紹介することとし、それらの文章を緑色で区別しました。したがいまして、今回はいつもよりも長めのブログとなっていますが、最後までお読みいただけますと幸いです。

<ブログの構成>

はじめに
1-1.常盤橋門跡
1-2.柳原土手跡遺跡
1-3.松平越前守屋敷跡遺跡
1-4.丸の内一丁目遺跡
2-1.江戸城築城石ふるさと広場
2-2.畳石
2-3.朝日山石丁場
おわりに

はじめに

はじめに、伊豆石について説明しなければなりません。

伊豆石は、伊豆で採れる石の総称で、硬質の安山岩(※1)と軟質の凝灰岩(※2)とに分類されます。そのうち、江戸時代に伊豆で採石され、江戸へ運ばれていたものは主に安山岩で、真鶴などの西相模で採れるものを含めて「伊豆石」と呼ばれていました。

徳川家康は、天正18年(1590年)8月に江戸城に入り、以後、江戸城の修築を繰り返し行い、慶長9年(1604年)6月に石材の採石・運搬を西国大名28家に命じました。しかしながら、関東ローム層に覆われていた江戸には適当な石材が見当たらなかったため、江戸に近くて幕府の直轄地であった伊豆(主に西相模の早川・真鶴から伊豆の稲取にかけてのエリア)の良質な「伊豆石」が着目され、採石・運搬されることになったのです。

(※1)安山岩は、マグマが地表や地表付近で急冷して固まった岩石で、分類上、火成岩の中の火山岩に属されます。色は暗灰色・灰色で、堅くて耐火性が強いため、土木・建築材や墓石などに使用されます。

(※2)凝灰岩は、火山から噴出した火山灰が地上や水中に堆積してできた岩石で、堆積岩に分類されます。色は白色・灰色から暗緑色・暗青色・赤色までさまざまで、軽くて軟らかくやはり耐火性が強いため、石塀や石蔵などに使用されます。

1-1.常盤橋門跡(ときわばしもんあと)

さて、伊豆石ということで、江戸城に目をつけたのはよかったのですが、江戸城はそのほとんどが千代田区に位置しています。中央区観光協会特派員ブログということで、中央区に位置している江戸城の遺構はないか、と思案していると、常盤橋門跡に今も当時の石垣が残っていることに気づき、まずは、常盤橋門跡に行ってみることにしました。

 江戸の城と町を築いた伊豆石
~伊豆石のふるさとを訪ねました~

左上)常磐橋から見た常盤橋門跡。橋上の車道部分(左側の白っぽい部分)が花崗岩で、歩道部分(右側の黒っぽい部分)が安山岩です。

左下)日本橋川に架かる常磐橋と常盤橋門跡

右)中央区エリアマップで見る常盤橋門跡(上が北になります。)

 

常盤橋門跡(中央区日本橋本石町2丁目~千代田区大手町2丁目)に行ってきました。今は城門はありませんが、当時の石垣がそのまま残っていました。

この常盤橋門跡には、日本橋川に架かる常磐橋附属しています。その常磐橋は東日本大震災で被害を受け、修復工事が行われていましたが、令和3年(2021年)5月に工事が完了し、とても美しい石造2連アーチ橋に生まれ変わりました。

常盤橋門跡は常盤橋公園内にあります。その公園内に「常盤橋門」に関する説明板があり、以下の説明がありました。

>常盤橋門は、1629年(寛永6年)に出羽・陸奥の大名によって築造されました。門は、江戸城諸門の中でも奥州道中につながる江戸五ロの一つで、浅草口、追手(大手)口とも呼ばれました。江戸城内郭の正門である大手門に接続することから、軍事上重要な門に位置付けられました。
 門の構造は、内枡形門形式の枡形門で、北側に渡櫓とそれを支える石垣があり、門をくぐった先には大番所が配置されました。また、東側には冠木門が構えられており、それ以外の三方は土手が巡らされていました。
 明治以降、常盤橋門の建物は破却されました。残った枡形石垣の一部と1877年(明治10年)に架けられた常磐橋 (石橋)、橋の石積部分は1928年(昭和3年)に国の史跡に指定されています。

公園内には「常盤橋屋外ミュージアム」もあり、常磐橋の修復工事で出た遺物や旧材などが多数保存されていました。そして、その中に「安山岩」と書かれた説明板があり、以下の説明がありました。

>常磐橋は、明治10年に東京市内15カ所で一斉に建設が計画されたアーチ橋の中で、唯一、現在まで残っているアーチ橋です。石材には、江戸城外堀の見附門の一つだった小石川御門の破材が主に用いられました。このため、アーチの下の輸石部分などには枡形門石垣と同じ、伊豆半島から運ばれてきた安山岩が多数用いられています。

 江戸の城と町を築いた伊豆石
~伊豆石のふるさとを訪ねました~

常盤橋屋外ミュージアムに保存されている安山岩。他にも、常磐橋の修復工事で出た遺物や旧材などが多数保存されています。

 

また、常磐橋に関して、「『常磐橋の修理工事 -解体調査結果と修復方法-(常磐橋修理工事 第2回 現場見学会資料)』千代田区、2016年」には、車道部分が花崗岩で、歩道部分が安山岩との説明もありました。

以上のことから、常盤橋門跡の石垣と常磐橋に伊豆石(安山岩)が用いられていたことが確認できました。

なお、常盤橋門跡のさらに詳しい説明は「中央区を、知る about Chuo City/中央区ホームページ」をご覧ください。

1-2.柳原土手跡遺跡(やなぎはらどてあといせき)

では、次の江戸城の遺構ですが、なかなか思い浮かぶ場所がありません。

そこで、困ったときにいつも相談に乗っていただく、京橋図書館地域資料室を訪ね、おうかがいしたところ、中央区内で現存している遺構はおそらくないのではないか、ということでした。しかしながら区内の発掘調査で出土した石垣石伊豆から運ばれた安山岩だったと考えられる事例を3例調べていただき、そちらへ向かうことにしました。

まず1つ目は、柳原土手跡遺跡(中央区日本橋馬喰町2丁目7番)です。

同遺跡は、中央区の最北部を東流する神田川に架かる浅草橋の西側、神田川南岸にあった柳原土手跡の平成20年の発掘調査で出現したものです。土手は、元和2年(1616年)に神田川が開削された後、元和6年(1620年)に築かれ、寛永13年(1636年)に松平越前家の負担により築造された浅草橋門のすぐ脇にあったことから、江戸城外堀の石垣と同様、重要な位置づけだったといわれています。土手跡の南側は、柳原通りとなっており、現在、開智日本橋学園さんの校舎が通りに面して建っています。

遺跡周辺の状況・全体像を確認するために、まずは、浅草橋を渡り、北詰西側にある浅草橋公園(台東区浅草橋1丁目1番15号)に行ってみると、浅草見附跡碑が建っていました。江戸時代、浅草橋は浅草橋門に附属する浅草見附として江戸城を守る軍事施設の役割を果たしていました。外敵が城内に入るためには、浅草橋を渡って二の門を抜け、枡形を右に曲がって一の門である浅草橋門(枡形門)を突破しなければなりませんでした。

 江戸の城と町を築いた伊豆石
~伊豆石のふるさとを訪ねました~

上)浅草橋公園に建っている浅草見附跡碑。浅草見附は江戸城三十六見附の一つで、江戸城を外敵から守るために設置された軍事施設でした。橋の向こう側に見えている建物が開智日本橋学園さんの校舎で、校舎を建て替える際、この場所で発掘調査が行われたそうです。

下)中央区エリアマップで見る柳原土手跡遺跡(上が西になります。)

 

次に、また浅草橋を渡って南詰に戻り、そこから柳原通りを西に少し進むと、開智日本橋学園さんの校舎の前に、何と古そうな石垣石があるではありませんか。近づいて説明板を見てみると、「出土した江戸時代の石垣石」と書かれていました。ここで当時の石垣石に対面できるとは予想もしていなかったので、とても感動し、テンションが上がりました。

 江戸の城と町を築いた伊豆石
~伊豆石のふるさとを訪ねました~

左)開智日本橋学園さんの校舎の前に展示されている石垣石。オレンジのビオラとよくマッチしていました。

右)校舎の南側が柳原通り(右上の写真の左側の道路)で、通りに面して出入口(右下の写真)があります。

 

その説明板には次のような説明がありました。

>この石が出土した場所は、ここから西へ約 5、60m行ったところになります。そこは、江戸時代を通じて神田川に沿った柳原土手という土手でした。神田川は江戸城の防御のための堀の役割も果し、浅草橋の南側には、江戸城の最も北東にある浅草橋御門と呼ばれる城門があり、この一帯は江戸城内でも重要な位置にあたります。
 この石は、平成19年12月から平成20年5月にかけて行なわれた発掘調査において、地下1mほどで発見されました。伊豆半島辺りから運ばれてきた安山岩質の石です。こうした石が6段前後、高さ3~4mに数十個積まれた状態で見つかりました。これは江戸城の防御を固める石垣です。土手の南側を補強する意味もあったのかもしれません。土手の形に沿って東西に長く築かれていました。
 今回の発掘調査で、はじめてここに石垣が築かれていたことがわかった新発見の資料で、まさにこの一帯が江戸城の一角を成していたことがわかる貴重な出土遺物です。

そして、開智日本橋学園さんの広報担当の方からは、「その石垣石は、旧校舎を壊して新校舎を建てるときに、中央区教育委員会による発掘調査が行われ、瀬戸物類などの遺物とともに出土しました。それ以外の石垣石やほとんどの遺物は埋め戻されましたので、学園の地下には今も遺跡が眠っていることになります。発掘は学園の生徒たち有志もお手伝いさせていただきましたので、大変貴重な経験となりました」との説明もいただきました。

また、「中央区教育委員会編『東京都中央区 柳原土手跡遺跡』学校法人日本橋女学館、中央区教育委員会、2013年、P.165」には、以下の記述がありました。

柳原土手跡遺跡のものに似た石垣としては、中央区内では、17世紀前葉から中葉に50万石であった、徳川親藩である松平越前家の屋敷地を調査した松平越前守屋敷跡遺跡がある。図示した石垣は、寛永13(1636)年に浅草橋外にあった越前家の下屋敷を普請した際の余剰な石材によって築かれたものと思われる。また、千代田区の丸の内一丁目遺跡で検出された天下普請による江戸城外堀の石垣は、寛永13年の外堀普請のものである。打込接布積とみられるがやや崩積であり、石材の規模は柳原土手跡遺跡や松平越前守屋敷跡遺跡のものに近似している。

以上のことから柳原土手跡遺跡から出土した石垣石も、伊豆石(安山岩)であったとが確認できました。

1-3.松平越前守屋敷跡遺跡(まつだいらえちぜんのかみやしきあといせき)

2つ目は、先ほどの「中央区教育委員会編『東京都中央区 柳原土手跡遺跡』学校法人日本橋女学館、中央区教育委員会、2013年」にも記述のあった松平越前守屋敷跡遺跡(中央区新川2丁目23番)です。

同遺跡は、私が勤めている新川にあり、鍛冶橋通りと八重洲通りが交差する新川二丁目交差点から隅田川に架かる中央大橋方面に歩いてすぐのところにあります(灯台もと暗しでした…)。

新川はかつては霊巌島(れいがんじま)と呼ばれ、寛永元年(1624年)、霊巌上人が民衆を集め、海辺を埋め立て霊巌寺を創建した場所です(「新川に架かる9つの橋(シリーズ2回目:霊岸橋・新亀島橋・亀島橋)」ご参照)。そして、寛永11年(1634年)に松平越前家の三代・忠昌が遺跡地周辺の土地を拝領し、以後、江戸時代を通じて同家の屋敷として利用されてきました。

 江戸の城と町を築いた伊豆石
~伊豆石のふるさとを訪ねました~

左上)明正小学校の前にある越前堀児童公園(中央区新川1丁目12番1号)に展示されている越前堀の石垣石

左下)左上の写真の石を後ろから撮影したもので、矢穴(石を割るために彫られた穴で、四角に窪んだ形状をしています。)があるのがわかります。

右)中央区エリアマップで見る松平越前守屋敷跡遺跡(上が東になります。)

 

発掘調査は平成18年に行われ、そのとき出土した石垣石が越前堀児童公園に展示され、説明板には以下の説明があります。

>ここに展示した石は、「石垣石」と呼ばれる越前堀の護岸に用いられたものです。平成18年、新川二丁目で行われた遺跡の発掘調査で見つかりました。その一部を、ゆかりのある当公園内の堀跡付近に移設しました。
 江戸時代、この辺りは越前国福井藩主、松平越前守の屋敷地でした。屋敷は三方が堀に囲まれ、これが「越前堀」と通称されていました。越前堀の護岸は石積で、今でも土木工事や遺跡の調査中に出土することがあります。堀の幅は12~15間(20~30m程)もあり、運河としても利用され、荷を積んだ小舟が通っていたようです。
 明治になり、屋敷の跡地が「越前堀」という町名となりましたが、堀は次第に埋め立てられていきます。大正12年(1923)の関東大震災以後、一部を残して大部分が埋め立てられ、わずかに残っていた隅田川に近い部分も、戦後完全に埋め立てられました。その後、町名が改められ、「新川」となって現在にいたります。
 今では往時をしのぶ「越前堀」の名は、この区立越前堀児童公園にみられるのみとなりました。
 なお、この公園は、関東大震災後につくられた「帝都復興小公園」の一つである「越前堀公園」からはじまります。

また、「中央区教育員会編『東京都中央区 松平越前守屋敷跡遺跡』株式会社ウインコーポレーション、中央区教育員会、2010年、P.32」には、以下の記述がありました。

石垣に用いられている石垣石は、角錐様を呈す安山岩製のものである。

以上のことから、「1-2.柳原土手跡遺跡」での「柳原土手跡遺跡のものに似た石垣としては、(中略)松平越前守屋敷跡遺跡がある」との記述も踏まえ、松平越前守屋敷跡遺跡から出土した石垣石も、伊豆石(安山岩)であった(可能性が高い)ことが確認できました。

1-4.丸の内一丁目遺跡(まるのうちいっちょうめいせき)

そして、最後の3つ目は、やはり「中央区教育委員会編『東京都中央区 柳原土手跡遺跡』学校法人日本橋女学館、中央区教育委員会、2013年」にも記述のあった丸の内一丁目遺跡千代田区丸の内1丁目1番40外)となります

同遺跡は、東京駅の南、東西に走る鍛冶橋通りと南北に走る外堀通りが交差する鍛冶橋交差点の北西に位置し、寛永13年の外堀普請において西国大名によって石垣が築かれた場所です。発掘調査は平成8年から平成10年にかけて2回に分けて行われました。

また、同遺跡の住所は千代田区になっていますが、外堀通りを区境として、中央区と隣接した場所にあります。そういえば、常盤橋門や浅草橋門とともに、ここでご紹介する鍛冶橋門も、江戸城三十六見附の一つであり、区境となっている江戸城の外堀に建てられたという点が共通です。

 江戸の城と町を築いた伊豆石
~伊豆石のふるさとを訪ねました~

左上)鍛冶橋門に附属して外堀に架かっていた鍛冶橋(「山田米吉編『幕末維新風俗写真史』山田集美堂、1950年」より。中央区立京橋図書館より提供)

左下)現在の鍛冶橋門跡付近。鍛冶橋通りの南側から丸の内一丁目遺跡方面を望む。

右)中央区エリアマップで見る丸の内一丁目遺跡(上が北になります。)

 

訪ねてみましたが、石垣などの遺構はなく、鍛冶橋門跡の説明板があるのみでした。

鍛冶橋門は、1629年(寛永6年)に築造されました。門に附属する鍛冶橋は、現在の丸の内二、三丁目と中央区の八重洲六丁目を結んでいました。
 名称は、外堀の門外の町名が南鍛冶町(現在の中央区八重洲二丁目・京橋二丁目)であったことに由来します。また、江戸時代初期、御用絵師の狩野探幽の屋敷がありました。門内には大名屋敷が立ら並び、慕末には、津山藩(現在の岡山県)松平家、土佐藩(現在の高知県)山内家が付近に上屋敷を構えていました。
 1873年(明治6年)に鍛冶橋門は枡形石垣を残して撤去されました。橋は、1876年(明治9年)にアーチ橋として再建されましたが、終戦後の瓦礫処理で外堀が埋め立てられた際に、橋も姿を消しました。
 現在は「鍛冶橋架道橋」・「鍛冶橋交差点」にその名前が残っています。

「丸の内1-40遺跡調査会編『東京都千代田区 丸の内一丁目遺跡』日本国有鉄道清算事業団、丸の内1-40遺跡調査会、1998年」によれば、寛永13年の外堀普請は、西国大名61家によって石垣が築かれ、東国大名52家によって堀が掘られるという、江戸城普請の中でも最終的かつ最大規模の外郭普請でした。石垣を担当した西国大名61家は6組に分かれ、各組ごとに担当の丁場が決められ、各丁場でも大名ごとに担当の丁場が細かく割り与えられていました。

そして、発掘調査の結果、石垣や石垣に刻まれていた刻印などから、今回の発掘調査地点は、備前岡山藩池田家が組頭となり、南から三田藩九鬼家、岡山藩池田家、佐伯藩毛利家、成羽藩山崎家、岡藩中川家の5家の大名によって築かれたことが確認されました。

また、同資料(P.242)には石垣の材質について、以下の記述もありました。

>肉眼による石材鑑定によると、検出された石材は全て安山岩系であり、伊豆半島もしくは真鶴半島からもたらされたと考えられ、区画ごとの差異は認められない。

以上のことから、やはり、「1-2.柳原土手跡遺跡」での「丸の内一丁目遺跡で検出された天下普請による江戸城外堀の石垣は、(中略)柳原土手跡遺跡や松平越前守屋敷跡遺跡のもに近似している」との記述も踏まえ、丸の内一丁目遺跡から出土した石垣石も、伊豆石(安山岩)であった(可能性が高い)ことが確認できました

 

<江戸城外堀の石垣>

丸の内一丁目遺跡周辺を訪ねた際、「石垣などの遺構はなく、鍛冶橋門跡の説明板があるのみでした」と前述しましたが、後日、東京駅八重洲口に隣接して建っている丸の内トラストシティ(千代田区丸の内1丁目8番1号)の敷地内に鍛冶橋門周辺で発見された石垣石が再現されていたことを知り、確認してきました。

 江戸の城と町を築いた伊豆石
~伊豆石のふるさとを訪ねました~

鍛冶橋門周辺で発見された石垣石(真ん中の大きめの石8個がそうです。)。石垣石の表面には、石を割るために彫られた矢穴も見られました。

 

以上、ここまでが江戸城などに残る石垣石の確認となります。

 

2-1.江戸城築城石ふるさと広場(えどじょうちくじょうせきふるさとひろば)

では、ここからは、これまで確認してきた石垣石のふるさとである伊豆に残っている築城石をご紹介したいと思います。

まずは、伊豆急行線、伊豆稲取駅前にある、その名も「江戸城築城石ふるさと広場」(静岡県賀茂郡東伊豆町稲取2832-1)です。

 江戸の城と町を築いた伊豆石
~伊豆石のふるさとを訪ねました~

伊豆急行線、伊豆稲取駅前に展示されている築城石の数々。下の写真は切り出した石を修羅に載せて運ぶ姿を再現したものです。

 

ここは、江戸城に運ぶために伊豆の山中で切り出された多くの築城石(実際には運ばれなかったので「残念石」ともいわれます。)が説明板とともに展示され、まるで築城石のテーマパークのような場所でした。駅舎の壁の説明板をご紹介したいと思います。

>慶長九年六月、徳川家康は江戸城の大拡張工事を発表し、その中で築城用の石材を採取運搬すべき命令を西国の外様大名に下し、石高十万石につき「百人持ち石」(百人で運搬できる石)の大石を千百二十個あて課しました。城郭用石材は緻密で耐熱性に優れ整形容易なものが要求された為、相模・伊豆東海岸の安山岩などの堅質岩類が採用され、相模灘に面した東伊豆町各地区においても、西国大名の採石丁場が営まれた城郭用石材が数多く切り出されました。
 これらの石が採取された稲取地区には「御進上松平土左守」と刻銘のある「畳石」と称する大型切り石が八個残存しており、土佐山内家の採石です。他にも釘抜紋・卍紋・井桁紋・三ツ星紋などの刻印石を遺す丁場跡が現存しています。(中略)
 慶長十一年から三十余年の間、江戸城修築は続き最盛期には「百人持ち石」二個を積んだ石船三千艘が月に二度江戸と伊豆東海岸との間を往復したといわれています。(後略)

 江戸の城と町を築いた伊豆石
~伊豆石のふるさとを訪ねました~

「江戸城築城石ふるさと広場」には、伊豆の山中にある石丁場(石を割ったり、加工したりした場所)で石を切り出し、修羅に載せて港へ運び、石積み船に載せる一連の工程が、大変わかりやすく説明されているパネルがありました。

2-2.畳石(たたみいし)

次も、同じく東伊豆町稲取にある「畳石」(静岡県賀茂郡東伊豆町稲取223-1)です。

その石は、民家の前に2つあり、しめ縄が飾られていました。

 江戸の城と町を築いた伊豆石
~伊豆石のふるさとを訪ねました~

民家の前に置かれた2つの「畳石」。上が西側の石、下が東側の石。民家の住人から貴重なお話をおうかがいすることができました。

 

説明板に以下のような説明がありました。

>東伊豆町指定文化財のこの築城石は、稲取の「畳石」として古くから知られています。
 石の側面に「御進上松平土佐守十内」と刻記されており同様の築城石が町内に十個ありその内の代表格の石であることを示している。
 徳川家康の命令で慶長十年(一六〇五年)から始った江戸城大修築は、三代将軍の家光の頃、寛永十三年(一六三六年)まで続きほぼ完成した。
 その時、課役大名の土佐藩主山内忠義の石丁場が稲取に置かれ、数多くの築城石を採取し、「百人持の石」二千二百四十個の完納に努めた。今に遺るこの石は、土佐藩に対し採石命令が下った際それに対応するために準備された石です。

「畳石」を見学していると、ちょうど民家の住人が出てこられ、「この石は元々はもっと海側(民家の南側)にあったのですが、そこに道路が敷かれることになり、石を処分するというから、たまたまこちらに来ていた大工さんらに頼んで三日三晩かけて、今の場所へ移動させてもらったのです。こちら(民家の前の西側)の石には「御進上松平土佐守十内」と書いてありますが、あちら(民家の前の東側)の石は「進上松平土佐守十内」とあり、「御」の字がないので、こちらの石はこの付近に数ある石の中で“横綱級”だと思っています。石丁場は稲取駅の裏山にあって、川筋を利用してここまで運んだのだと思います」との貴重なお話をおうかがいすることができました。

2-3.朝日山石丁場(あさひやまいしちょうば)

最後は、熱海市の朝日山石丁場(静岡県熱海市網代542)です。

同丁場は、熱海市の網代朝日山公園内にあります。網代漁港を背にして細い山道を上っていき、廃校となった網代中学校が見えてくると、目的地はすぐそこで、漁港から車で10分ほどの距離でした。

朝日山は160mほどの低山ですが、あたりはすっかり山の中という雰囲気でした。江戸時代、石丁場はこういった山の中にあるのが一般的で、大名たちがここで石を割り、築城石をつくっていたのです。それにしても、ここからまた港まで石を運ぶのも、さぞ大変だったことだと思います。

 江戸の城と町を築いた伊豆石
~伊豆石のふるさとを訪ねました~

左)縦一線に矢穴が掘られた築城石です。このあたりは石丁場だけあって、苔むした築城石があちらこちらに見られました。

右)網代朝日山公園周辺のマップ。朝日山公園はその名のとおり朝日がよく見える場所として地元で有名だそうです。

 

説明板があったので、ご紹介したいと思います。

>徳川家康、秀忠、家光の三代にわたる、慶長11年(1606年)より寛永13年(1636年)にかけて江戸城の大規模な増修築をはかった際、諸国の大名に命じて、城郭の分担箇所のエ事を督励するとともに、伊豆の国(静岡県)より石材の運搬に当らせた。石材の採掘は相模の国(神奈川県)の真鶴から伊豆の稲取にかけて行われたが、当時大名が義務として提供する石の割当ては、10万石につき100人持ちの石1020玉ずつであったことから九端帆の石船(100人持の石2つを積む)3000艘も伊豆と江戸の間を月2回ずつ往復したといわれている。このところも石伐りが行われた跡地でこの辺一帯を熊本城主加藤忠広をはじめ、小倉城主細川忠興や大村城主大村純信の大名が担当し、石伐りと舟積みにあたったものでここに見られる石材は当時の運び残された伐石のひとつで担当した大名の刻印がしるされている。

 

以上が伊豆に残っている築城石のご紹介でした。

おわりに

おわりに 江戸の城と町を築いた伊豆石
~伊豆石のふるさとを訪ねました~

今回ご紹介した伊豆の築城石スポット(「地理院地図 / GSI Maps|国土地理院」を使用し、同図にコメントを付けて掲載)

 

伊豆旅行をきっかけに、今回、伊豆石を調べる機会を得ましたが、調べれば調べるほど、伊豆から運ばれた築城石(石垣石)は江戸城だけにとどまらず、その城下の建築物やインフラなどにも利用されていたことがわかりました。また、実際に伊豆に出かけ、築城石の多さにも驚かされました。

本ブログで確認をした江戸城などに残る石垣石、ご紹介をした伊豆に残っている築城石は、ほんの一部でしかありませんが、伊豆石のふるさとを訪ね、伊豆と江戸との深い結びつきを知ることができ、伊豆石がまさに江戸の城と町を築いたことを実感しました。

最後になりましたが、私のさまざまな質問・依頼に快くご対応いただきました京橋図書館の地域資料室および郷土資料館の皆さまには大変お世話になりました。

また、柳原土手跡遺跡から出土した石垣石については、開智日本橋学園さんから各種情報をいただきました。

以上、この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。

 

<主な参考図書>

・江戸遺跡研究会編「江戸築城と伊豆石」吉川弘文館、2015年

・北原糸子著「江戸の城づくり - 都市インフラはこうして築かれた」筑摩書房、2012年

・萩原さちこ著「江戸城の全貌 - 世界的巨大城郭の秘密」さくら舎、2017年

・菅野良男著「刻印石で楽しむ三大名城の石垣物語」新人物往来社、2011年

・野中和夫編「ものが語る歴史シリーズ⑫ 石垣が語る江戸城」同成社、2007年

・西本昌司著「東京「街角」地質学」イースト・プレス、2020年

<主な参考資料>

・「常磐橋の修理工事 -解体調査結果と修復方法-(常磐橋修理工事 第2回 現場見学会資料)」千代田区、2016年

・中央区教育委員会編「東京都中央区 柳原土手跡遺跡」学校法人日本橋女学館、中央区教育委員会、2013年 

・中央区教育員会編「東京都中央区 松平越前守屋敷跡遺跡」株式会社ウインコーポレーション、中央区教育員会、2010年

・丸の内1-40遺跡調査会編「東京都千代田区 丸の内一丁目遺跡」日本国有鉄道清算事業団、丸の内1-40遺跡調査会、1998年 

 

 江戸の城と町を築いた伊豆石
~伊豆石のふるさとを訪ねました~

稲取の海岸から撮影した “海霧に浮かぶ伊豆大島” です。相模灘の水平線から太陽が昇り、とても幻想的な光景でした。江戸時代、この地で採石していた大名たちも同じ風景を見て、江戸への憧憬を抱いていたのかもしれません。