滅紫

大名屋敷の稲荷「宝珠稲荷神社」

名前は知っているのに訪れたことのない場所は結構あります。「わくわくツアー」をご案内する途中で気づいた「宝珠稲荷神社」もその一つです。

江戸時代には稲荷神社は「伊勢屋、稲荷に犬の糞」という言葉からも知られるように多いものの一つでした。「東都歳事記」(天保9年1838刊)にも「江府はすべて稲荷勧請の社夥しく武家は屋敷ごとに鎮守の社あり。市中には1町に三五社勧請せざることなし」と記されています。

宝珠稲荷も三河深溝(ふこうず)藩主板倉重昌の江戸屋敷内にあった屋敷神です。由緒にはこのように記されています。「宝珠稲荷神社は1615年の頃、三河の国深溝の領主板倉内膳匠重昌の江戸屋敷内に家内安全火除けの神として祭神されたものなり。、、、その後1760年宝暦年間石見の国津和野の城主亀井家に譲渡せられたるものなり。」板倉重昌は京都所司代として有名な板倉勝重の次男で島原の乱の鎮圧のため幕府から派遣されますが、原城を攻めあぐね、業を煮やした家光が知恵伊豆として知られる老中松平信綱をあらたに総大将として派遣すると聞き、この処置を恥じ到着前に落城させようと総攻撃をかけ、自らも戦死してしまいます。

父の板倉勝重、兄の重宗は親子で50年以上京都所司代を務め名所司代として後世まで知られています。私はこの話を以前読んだ時、「優秀すぎる親と兄弟に挟まれたプレッシャー」につぶされた悲劇ーと思っていましたが、この次男の重昌も武勇に優れた士だったようです。

重昌の子孫は福島藩主として幕末まで続いています。

宝珠稲荷神社  銀座3-14-15