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海の日 中央区との接点

7月15日は海の日でした。晴海でもイベントがあったようですが、海の日の由来をご存じですか?7月20日が本来の記念日なのですが、それは1876年(明治9年)に明治天皇が東北巡幸の際、はじめて軍艦ではない船である灯台巡察船の明治丸で航海し、7月20日に横浜に帰着したことに由来します。明治丸は英国製の鉄製帆船(今の船は鋼製)で、小笠原調査団が乗り新造船だったため同じ日に出港した英国船より2日早く小笠原に着いたことから、日本の小笠原諸島の領有に貢献したなどのエピソードを持つ船です。のちに東京商船学校の練習船となりました。今も江東区越中島の東京海洋大学構内に国の重要文化財として保存され見学もできます。(明治天皇の御座所などが見られる)さて、その明治丸と中央区には2つの接点があります。東京海洋大学と石川島造船所です。

 海の日 中央区との接点

運河を隔てた中央区側から見た明治丸。石川島公園や新川公園から遠望できる3本の黄色いマストが明治丸です。

東京海洋大学(旧東京商船大学)

東京海洋大学(旧東京商船大学) 海の日 中央区との接点

東京海洋大学は2003年に東京商船大学と品川の東京水産大学が統合されて出来ました。東京商船大学は1875年に時の内務卿大久保利通の要望により岩崎弥太郎が設立した三菱商船学校がそのもとで、永代橋のちょっと下流、京橋区霊岸島、今の中央区新川の隅田川に成妙丸という帆船を係留して開校しました。のちに官立東京商船学校と改称し、校舎も建てられ、1901年に越中島に移転するまで新川の校舎で船員教育がなされていました。このことを記念して永代橋西詰に「船員教育発祥の地」の碑が立っています。明治丸が商船学校の練習船になったのは1897年なので、明治丸も当時は新川の辺りに係留されたのだろうと思います。

 海の日 中央区との接点

ここまではいろいろなものに書かれているのですが、商船学校が移転後の跡地について。その敷地校舎は1900年にここに開校した中央商業学校(後の中央商業高等学校・中央商科短期大学。現在の中央学院大学)に受け継がれました。(2001年移転)今はマンション等が建ち、当時をしのぶものはありませんが、隅田川テラス沿いに「中央商業学校発祥の地」の碑が立っています。

石川島造船所

石川島造船所 海の日 中央区との接点

明治丸は商船学校の練習船になる際に、現在の大川端リバーシティ21のところにあった石川島造船所で改装工事を行いました。明治丸を通すために隅田川の川底を浚渫するなど結構な手間がかかったようです。

石川島造船所は1853年ペリーの来航で幕府が水戸の徳川斉昭に命じて作らせた日本で最初の西洋式造船所です。明治に民間に払い下げとなり、石川島播磨重工業(現IHI)となりました。画像は当時の「東京名所図会」という本に載っている挿絵で、ちょうど明治丸がドックに入っているときの絵です。ドックは隅田川本流の方、新川のほうに向けて開口していたようです。

 海の日 中央区との接点

石川島公園内の「日本初の民営洋式造船所発祥の地」の碑です。碑に描かれているのは「千代田形」という船で幕府の軍艦です。戊辰戦争では榎本武揚に率いられて江戸を脱走し、箱館まで転戦しました。(幕府の造船所の時に作った軍艦なので、ちょっと碑の題名にそぐわない感がありますが)

工場は1979年に閉鎖・売却されるまで続きました。子供のころは正午と夕方に鳴る工場のサイレンで時間を知ったものです。石川島造船所については中央区まちかど展示館の「石川島資料館」に模型など資料が展示され、工業地帯でもあった中央区の顔を窺い知ることが出来ます。

時代の推移とともに中央区と海の関係はだんだんと薄くなってきていますが、海の日と中央区も繋がりがあった、というお話でした。

明治丸

 国立大学法人東京海洋大学 海洋工学部 越中島キャンパス

 東京都江東区越中島2-1-6

 公開日 火曜、木曜、第1第3土曜(祝日の場合は休館 *大学祭、海の日は公開しているようです)

 4月~9月 10時~16時 10月~3月 10時~15時 

石川島資料館

 中央区佃1-11-8ピアウエストスクエア1階

 水・土曜日 10時~12時 13時~17時(入館16時半まで)