島崎藤村氏の青年期を形作る小諸での日々
高校時代、歌のテストにおいて音楽の先生から合唱部に誘われた私は、密かに歌を歌うことに自信を持っていたこともあり、その誘いに乗る形にて合唱部に途中入部をすることになりました。
その当時、高校の部活ではコンクールや定期演奏会向けにシューマンやシューベルトの歌曲集などドイツの歌やイタリアのカンツォーネなどを歌う機会も多いながらも、郷愁を誘う「椰子の実(島崎藤村/詩)」も間違いなく好きな曲の一つでした。
私が通っていた高校の校歌の作曲者が”赤とんぼ”や”この道”でも有名な「山田耕筰」氏だったのですが、その門下の大中寅二氏が「椰子の実」の作曲をしていたことも浅からぬ縁と勝手に感じていたのかもしれません。
ふとしたきっかけで中央区観光特派員となり、泰明小学校の卒業生に島崎藤村氏がいると知った際も、最初に浮かんだのは「破戒」や「夜明け前」より「椰子の実」でした。
長野県は小諸市の藤村記念館へ
さて、暑い暑い時期に長野県小諸市にある、「藤村記念館」と「小諸義塾記念館」などを訪れてきました。
教師とて小諸義塾に赴任
島崎藤村は、木村熊二の経営する小諸義塾に国語と英語の教師として赴任します。(明治32年、満27歳)
教師と執筆活動
明治34年には詩集「落梅集」を作品として世に出しますが、この中におさめられる一節に「椰子の実」があります。
明治38年4月に小諸義塾を退職し、6年1か月にわたる小諸生活に別れを告げ、家族とともに上京することになります。
作品、資料、遺品などの展示物の詳細についてはここでは割愛をいたしますが、ここ小諸での生活を経て、「雲」「千曲川のスケッチ」、そして「落梅集」などが生まれ、大作である「破戒」が寄稿されることになります。
「椰子の実」の詩碑もここに
島崎藤村氏は子供のころから絵画への興味が強く、画家になることも考えたこともあったとか。この小諸で過ごした「時」はそれまでの詩の世界を出て、絵を描くように、物事を見たままに書く散文を研究しています。この絵画的な文章表現がこれらの名作に結実し、今日の国語の基礎になっているといっても過言ではないかもしれません。
「藤村 蕎麦」もお忘れなく
なお、小諸では「藤村そば」も食べられますので、ぜひご堪能あれ!りんご王国信州ならではの甘酸っぱいリンゴの天ぷらもそばのトッピングについています。
(写真は藤村そばだけではなく、追加注文をしたてんぷら盛り合わせとおはぎが載ってます)
藤村そばは、「草笛」でいただけます。
蕎麦をいただけるのは「藤村記念館」や「小諸義塾跡」からもほど近い、草笛さん。小諸の史跡などを見学し、歩いた後にはよりおいしく頂けることと思います。(かなり人気にてお客様は多かったのですが、回転が速かったので是非お試しあれ)
ちょうど同じようなタイミングで「島崎藤村さんのルーツ」を掘り下げられていたこちらのブログもご参照ください。
[【遠足シリーズ第18弾】島崎藤村の小説世界の源泉へ]にてアクティブ特派員のHanes(ハネス)さんより
https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=520