江戸三大道場「士学館」で学んだ幕末志士二人のその後
京橋公園(中央区銀座1-25-2)の一角に、「蜊(あさり)
河岸」の説明板があります。
ここから約50m北の地点に、三つの川(楓川、京橋川、
三十間堀)が交差し、三つの橋(弾正橋、白魚橋、
真福寺橋)が架かっていたことから、江戸時代
「三つ橋」と呼ばれる名所となっていました。
そして、川の一つ「三十間堀」の東側に「蜊河岸」が
あり、河岸の南には、江戸後期に江戸三大道場の一つ
と言われた剣術道場「士学館」がありました。
武市端山(半平太)と田中光顕
「士学館」は、鏡新明智流の剣客桃井春蔵の道場で
あり、近くに藩邸があった土佐藩の武市端山
(半平太)と田中光顕の二人が学んでいました。
今回、「士学館」で学んだこの幕末志士二人の
その後を辿ってみます。
武市端山(1829~1865)は、もともと土佐で道場を開いていた腕前で、この士学館でもすぐに
塾頭となっています。
そして、文久元年(1861)土佐藩を尊王攘夷運動の中心にしようと「土佐勤王党」を結成、
約200人の組織に拡大しました。
公武合体派の土佐藩参政吉田東洋と対立、文久二年4月に東洋を暗殺させました。
その後、京や江戸を舞台として、尊王攘夷の華やかな活躍が続きましたが、翌年勤王党の
大粛清が行われると、武市は投獄され、詮議の末、証拠不十分ながら切腹を命じられました。
享年36歳。 書画にも才能が豊かで、獄中の自画像は有名です。
一方、田中光顕(1843~1939)は、武市に師事し「土佐勤王党」に入ります。
その後、元治元年(1864)同志とともに土佐藩を脱藩、長州に入り、高杉晋作の知遇を得ます。
そして、第一次・二次の長州征伐や戊辰戦争で活躍、維新後は明治政府で要職を歴任、
宮内大臣を11年間勤めました。
政界引退後は、武市の遺族の庇護をはじめ、維新烈士の顕彰・名誉回復に尽力、昭和14年に
95歳で没しています。