Hanes

9月15日、中央区内で関ヶ原を感じる


こんにちは。アクティブ特派員のHanes(ハネス)です。
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)は、関ヶ原の戦い(徳川家康を大将とする東軍 対 石田三成を中心とする反徳川勢力の西軍)が起こった日です。
来年はその天下分け目の戦いから420年を迎えるということもあってか、9月15日のSNSは関ヶ原で盛り上がっていました。
世界史専攻の私ですが、世の潮流に便乗し、9月15日は中央区内で関ヶ原の戦いに関する場所を巡ってみました。

関ヶ原×武器

征夷大将軍となった徳川家康が、英国人ウィリアム・アダムス(三浦按針)を外交顧問として迎え入れたのは1603年のこと。
しかし、それ以前に関ヶ原の戦いの戦力を左右するかもしれない出来事がありました。
それが、リーフデ号(1598年6月に東洋を目指してロッテルダムを出港したアダムスらの船)からの武器の没収です。
なぜなら、リーフデ号の積荷の大砲は、関ヶ原の戦い等で活躍したと言われているからです。

 9月15日、中央区内で関ヶ原を感じる

(三浦按針邸跡、八重洲)


プロム(参考文献欄を参照のこと)によると、リーフデ号が強力武装したと信じ込まされていた家康が特に関心を持ったことは、その船に武器があるかどうかでした。
そこでアダムスは、海賊船ではなく、日本と貿易関係を築くために来た船だと説明し、大量の衣服、装飾品、琥珀、ガラス、眼鏡、ブロンズの燭台があることに加え、武器の存在は否定しなかったといいます。

気になる武器の内訳は、火縄銃500、大砲の弾500、二連弾(二つの弾が一本の鎖につながっていて、船の装具などを破壊するために使う)300、火薬5000ポンド、火縄矢350。
内乱のある国では、可能な限り武装しておくことが重要であったため、家康はこれらの武器を没収し、戦いで使用したそうです。

関ヶ原の戦いの舞台やリーフデ号の漂着地は中央区内にはありませんが、中央区に関連のある家康とアダムスについて少し掘り下げてみた結果、関ヶ原を感じることができました。

【参考文献・ウェブサイト】
クラロス・モンク・プロム『按針と家康 将軍に仕えたあるイギリス人の生涯』(出帆新社、2006年)
東京都教育委員会「八重洲散策コース 8 三浦按針遺跡」
http://www.syougai.metro.tokyo.jp/bunkazai/week/chuo/chuo08.html

関ヶ原×馬

続いては、より日本的な側面から関ヶ原を感じてみましょう。
訪れたのは、江戸時代に旅人宿や公事宿(訴訟や裁判のために江戸に出てきた人を宿泊させる宿)が多かった日本橋馬喰町
当時から横山町や堀留町と共に問屋街として栄えた町です。

馬に関係のありそうな町の名前の由来は、
馬市が立ち、牛馬の売買や治療を行う博労(ばくろう)が多く住んだため
②近くにあった「初音の馬場」の管理を博労頭の高木源兵衛富田半七が任されていたため 等
諸説あるようで、下の絵にある「初音の馬場」は、江戸で唯一馬の売買が認められた場所でもありました。

 9月15日、中央区内で関ヶ原を感じる

(歌川広重の「名所江戸百景」馬喰町初音の馬場―国立国会図書館「錦絵でたのしむ江戸の名所」より/※転載可能画像を使用 )


関ヶ原の戦いの際には、ここで馬ぞろえ(出陣前の馬の検閲と演習)が行われたという逸話が残っています。
初音の馬場は、明暦の大火や文明開化等の時代の変化と共に徐々に姿を消しましたが、その名残は日本橋馬喰町という地名に見ることができます。

【参考ウェブサイト】
国立国会図書館「錦絵でたのしむ江戸の名所」
https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail043.html?sights=bakurocho
日本橋横山町馬喰町問屋街ウェブサイト https://tokyo-tonyagai.com/
WEB MAGAZINE 早稲田 @ 日本橋「日本橋馬喰町 日本橋横山町」
http://www.waseda.jp/wnfs/magazine/nihonbashi/071122/index.html

400年以上経ってもなお語り継がれ、小説やドラマの題材になる関ヶ原の戦い。
区内に屋敷を構えた武士に焦点を当てるともう少し広がりの出てくる話題ですが、今回は武器と馬に着目してみました。
戦国時代には密通や裏切りがある等人物関係の把握が難しく、なかなか全体像をおさえられずにいますが、少しずつ勉強をし、来年こそ戦国絵巻を片手に念願の古戦場跡およびその周辺を訪れてみたいです♪