銀座の泰明小学校卒業者、北村透谷氏を思う
格闘技ファンでもあった私は、一時期、格闘技の試合を見に会場に足を運ぶことも少なくありませんでした。出場選手のバックグラウンドや強みなどをある程度予備知識として試合を見ると、時々「道場で最強と呼び名の高い選手が満を持して出場するも、試合では何もできずに相手と向き合うだけで敗退」といったシーンに少なからず遭遇しました。期待が高かっただけに、何故だろうという思いと、次には弱みを修正してくるのではないかとの期待を持ち帰路に向かったものです。
そんな私は、泰明小学校の卒業生である北村透谷氏の人生を知った際に、この記憶を何故か思い出してしまいました。
銀座の泰明小学校の卒業生には著名人が少なくないわけですが、学校の正面に説明文と石碑「島崎藤村 北村透谷 幼き日 ここに学ぶ」もあることからこの両名はその代表格と見てもよろしいかと思います。
とはいえ、島崎藤村氏に比較すると、私だけかもしれませんが、北村透谷氏の知名度はそこまで高くないのではないかとも思えます。
藤村は『桜の実の熟する時』『春』において、透谷をモデルとした主人公(心から尊敬していた先輩として描く)が自殺し、衝撃を受けたことを記しています。
「内部生命論」など一連の著述で透谷は、人間には「内面」というものがあり、それを表現するのが文学の役割だと記しました。これは当時、とても新しい感覚だった。透谷は旧来の勧善懲悪の戯作(げさく)や、当時勃興しつつあった大衆文学を鋭く批判し、そこに描かれているのは「恋愛」ではなく、単なる肉体の欲情に過ぎないと喝破した。こういった言質が当時の急進派の文学青年たちから、透谷は圧倒的な支持を集めたとのことです。
しかし透谷は、自らの文学論にかなうだけの作品は残せなかった。そして、新しい文学の概念だけを予言して、二五歳の若さで自死したのです。
透谷を慕い集う若い文学青年たちの前で、彼の発する言葉は難解性を持ちながらも意味を持ち、周りの人間の尊敬を集めるほどに魅了していたのかもしれません。しかしながら、彼を尊敬する後輩たちの方が、文学作品としてはよほど売れるものを世に出していく。
(これが道場では強いが試合で力が発揮できない、私の個人的記憶に結びついたと考えられます)
その心の内実と、透谷は大いに葛藤していたのかもしれません。
北村透谷氏に限らず、文学者の平均年齢は、時に恐ろしく短い、と思うことがあります。その多くが、今の基準であれば過労や精神疾患に通じるものでしょう。しかし、かつての私の会社人生を顧みても、過労で人が死ぬといった概念がなかったものですからこの当時ではなおさらだったことでしょう。
小説や詩を書けないという苦悩だけで人は死に至る。いや、文学は死に値するほどの崇高なものなのだと透谷は身をもって後続の者たちに示した、と考えられる。このことは更に彼を神格化した可能性も否定できません。
透谷は「すきや」と考える
北村透谷の本名は北村門太郎。透谷は「すきや」をもじったもの、と言われており、数寄屋橋付近の泰明小学校に通ったことは彼の人生にこの一時期が意味を持っていたと思います。
そんなことを思いながら、この石碑の前に立つと、なんだかシンプルなこの言葉にも重みを感じてしまうのです。
「島崎藤村 北村透谷 幼き日 ここに学ぶ」