茶ノ木神社の不思議
上の画像は、茶ノ木神社の境内に設置されている由緒書の全文です。スマホでご覧のかたは、そのままだと文字が小さすぎて読めないと思いますが、適宜拡大してご覧ください。
まずは、書いてある内容ではなくて、「書き方」についての不思議です。
この神社の祭神はもともと倉稲魂大神(ウカノミタマノオオカミ)で、昭和60年に布袋尊を合祀したとあります。あくまでも主神は倉稲魂大神のはずですが、それにしては冒頭で『茶ノ木神社(布袋尊)』とか、最後のほうに布袋尊についての解説(※)まであるというのを見ると、まるで「布袋尊のほうが主神」のようにも思えますね。
そして何より不思議なのは不揃いな文体です。「~である」と断定したり、「合祀申し上げて」と謙譲形で書かれている箇所を見ると、「ああ、神社の関係者のかたが自信を持って書いたり、へりくだって書いたりしているんだろう」と思えますが、肝心の、神社そのものの来歴が「~と伝えられている」と、妙に自信なさげな伝聞形での記述になっています。自分の神社のことなのに、なぜなんでしょうね・・??
※布袋尊が「阿弥陀菩薩」の化身とありますが、これは二重の誤りで、正しくは「弥勒菩薩(みろくぼさつ)」です。また、阿弥陀は修行の末、解脱して如来となり、「阿弥陀如来」と呼ばれています。それがまだ修行中(菩薩)にされるというのは、書き間違いとしてもあんまりですね(笑)。
もうひとつの由緒書
神社自身によって書かれた由来が実はもう1つありました。
見つけるのに少し苦労しましたが、wixという無料サービスを利用した茶ノ木神社の公式サイトが見つかりました。「ご案内ホームページ」というタイトルで、問合せ先も連絡先も無いホームページですが、フッターに著作権者として「chanoki jinja」と記載されていますので、公式サイトと見てよいかと思われます。
こちらには、境内に掲げられている由緒よりも少し詳しい説明が記載されており、関東大震災以降、現在までの経緯なども書かれています。
・・・そして非常に興味深い記載が!
『・・・以上は、堀田家の老女で仕えた人の身内で、下総関宿の人、此の土地の差配であった謡友沢田恵吾氏より直接聴いた話である。』と。
日本語が若干変ですが、なんと、境内の由緒書の出典は、沢田恵吾さんというかた個人が語った話だったのですね。それにしても、「直接聴いた」というのは、誰が聴いたのでしょう・・??
さらにもう1つの由緒書
公式サイトの履歴を調べてみると、
前述の公式サイトが制作される前、YahooGeocitiesで制作されたサイトも存在していたようです。(geocitiesのサービス終了に伴って、wixで再制作したようです)
そして、internet archivesには、昔の公式サイトもしっかり保存されていました。
たとえば2009年12月に保存されていたページは下記です。
https://web.archive.org/web/20091210214649/http://www.geocities.jp/cha_no_ki/
そしてここにも驚くべき記述が!
さきほどの疑問、「沢田恵吾氏より直接聴いたのは誰なのか」が書かれていました。
「・・・以上のお話は、当時世話人(旧蠣殻町二丁目北部町会会長)故 越川起成 氏詩集:当栄の記(発行1971年:非売品)[茶ノ木神社の由来]より 引用いたしました。」と。
まとめると、「越川起成さんというかたの私的な詩集に、昔堀田家で働いたことがあるという老女を身内に持つ沢田恵吾さんという謡友から聴いたという話が書かれており」、それを引用して正式な由緒とした、ということのようです。いわば二重三重の伝聞。
しかしこれで、境内の由緒書がどうして「伝聞形で」書かれているのかは納得できるような気がします。
公式記録が無い・・
神社自身による由緒ではなく、歴史資料のほうではどうなっているのかを調べてみました。
■場所について
江戸時代の江戸の地図は大名屋敷の案内図的な役割もあったため、大名の上屋敷だけでなく、中屋敷・下屋敷などもきちんと記載されているのが通例です。
しかし、どの古地図を見ても、現:人形町のあたりに「三千坪におよぶ堀田家の中屋敷」を見つけることはできませんでした。
堀田家は何代にもわたって佐倉藩主を務めた名門の家系で、もちろん上屋敷・中屋敷・下屋敷を所有していましたが、それらに加えて、地図も資料も一切見当たらない中屋敷をさらにひとつ所有していたというのは、不思議ですね・・・
大名屋敷というのは完全に場所固定というわけではなく、さまざまな理由で結構入れ替えがあったりしたようなので、どこかのタイミングで「一瞬だけ人形町のあたりに存在した」可能性は否定できませんが。。。
ちなみに、冒頭の由緒書には「佐倉の城主大老堀田家」とありますが、有名な大老で歴史の教科書にも登場する堀田正俊は佐倉藩主だったことはありません。
■宗教法人でもない?
「東京都宗教法人名簿」というものがあります。
ここには都内5,000あまりの宗教法人が登録されているのですが、なぜか茶ノ木神社は見当たりません・・・日本橋七福神のほかの神社は、宝田神社や常盤稲荷を含めて全て登録されているにもかかわらず、です。茶ノ木神社は「神社」でありながら、宗教法人ではないのでしょうか・・??
また、中央区史、日本橋区史はそれぞれ区内の神社に関してかなり詳細に記載されていて、祠(ほこら)のような神社まで名前が見えますが、なぜかここにも茶ノ木神社は登場しません。。
リガーレ日本橋人形町
茶ノ木神社の社殿はリガーレ日本橋人形町というURのタワーマンションの敷地の一角にあります。そしてなぜかリガーレのHPに茶ノ木神社についての記載があり、それによれば・・
『都市開発による事業で仮座していましたが「リガーレ日本橋人形町」の敷地内に新しい社を構え、2008年2月に還座し、入魂式を行いました。』とのことです。
それまでどこに仮座していたのかも気になりますが、還座(遷座、という言い方のほうか一般的かも)されたからにはもうそこに神様はいらっしゃるはずなのに、なぜさらに入魂式を行う必要があったんでしょうね・・・?(入魂式とは、本来、魂の入っていないものに神様の力を込める儀式)
日本橋七福神
上記のリガーレのHPの茶ノ木神社ページには
『七福神への信仰は室町時代より始まったと言われており、500年の昔より人々に受け継がれつつ年々盛んになっております。』
と書かれているので、うっかりすると500年も前から日本橋七福神があったかのようにも読めてしまいますが、これは一般的な七福神信仰のことを表しているのでしょうね。ちなみに、日本橋七福神がスタートしたのは昭和25年のことです。
当時、戦災復興・町おこしのために、15代有馬家当主の有馬頼寧(ありまよりやす)氏が企画して始まったものです。頼寧氏は政治家で、戦前は衆議院議員・貴族院議員を経て農林大臣も務め、戦後は中央競馬会の理事長としても活躍して「有馬記念」レースに名を残した人です。現在の水天宮宮司、有馬頼央氏の祖父にあたるかたでもあります。
当時の七福神めぐりは7社で、回る順番も決められており、一番は水天宮(有馬氏が企画したのでこれは当然かも)ということになっていました。そして、そこには茶ノ木神社と宝田神社の名前は無かったのです。当時布袋尊とされていたのは、常盤稲荷神社でした。こちらは堂々とした歴史も由緒もある神社です。
ところが昭和32年、頼寧氏の死去に伴い、日本橋七福神はいったん幕を閉じました。
それが昭和51年に再スタートして現在に至っているのですが、昭和60年になって、常盤稲荷神社が七福神からはずれて、茶ノ木神社が新・布袋尊として加わったのです。。。
昭和57年以降の住宅地図には載っていました
資料や史書や古地図を辿っても茶ノ木神社が見つからないので、ゼンリンの住宅案内図を見てみました。すると。。昭和55年版の案内図では「人形町1丁目町会」の前は小さな空き地だったのが、昭和57年版ではたしかに「茶ノ木神社」になっていました!以降ずっとそこに存続。
前述の公式サイトによれば、昭和35年頃の日比谷線建設工事に伴って、一時的に西東京の東伏見稲荷に遷座し、約3年後に戻ってきたことになっていますが、戻って来てから昭和57年頃まではいったいどこにあったのでしょう・・??
私の資料検索が不十分である可能性も多分にありますが、とにかく、何重もの謎に包まれている茶ノ木神社。とっても興味深いです。
最後に・・・
神社の境内にある由緒書というのは、史実を的確に反映したものであることは稀だと思っています。ですので、茶ノ木神社に限らず、「不思議な由緒」を持つ神社は多いです。
私が知っている中で最も驚いた由緒書は、京都の鞍馬寺の護法魔王尊についてのもので、なんと650万年前に金星から地球に降り立ったというものです。(結構有名です:笑)
なので、由緒書のひとつひとつに目くじらを立てるというつもりはなく、逆に、「由緒書を無批判に丸写しして、それがまるで歴史的事実であるかのようにブログ等で安直に拡散している」例を時折目にしたりもしますので、それは危険な行為だという意味も込めて、「不思議を列挙」させていただきました。
不思議探しの(興味を持つ)きっかけにしていただけたらと思います。
参考文献:
日本橋区史(1916)
中央区史(1958)
中央区の歴史(1979:東京ふる里文庫)
川と掘割20の跡を辿る江戸東京歴史散歩(2017:PHP新書:岡本哲志)
宗教とツーリズム(2012:山中弘:世界思想社)
分間江戸大絵図、江戸切絵図、東京都日本橋区地図(明治44)、日本橋区全図(昭和12)、ゼンリン住宅地図(各年代)など