中央区の歩道っておもしろい!32【八丁堀鈴らん通り】
こんにちは、湊っ子ちゃんです。
今日は、八丁堀「鈴らん通り」にやってきました。
八丁堀といえば、「御用だ!御用だ!」でおなじみの、粋な庶民の味方、与力・同心の町ですね。
そんな八丁堀の、鈴らん通りの歩道に、絵をみつけましたよ!
提灯ですね!
よぉ~く見ると、手前に十手も描かれています。
十手についた朱房が、八丁堀の文字を八の字に囲んでいますね!
なかなか、奥の深い絵です。
八丁堀は、時代とともに大きく変化した町です。
江戸時代初期は、寺町でした。
明暦の大火で、多くの寺院が郊外へ移ってゆくと、ここは武家地あり町人地ありの、与力・同心の町となります。
与力・同心は、広大な屋敷の一部を貸し、副収入を得ていました。
と言っても、町人に貸すことは許されていなかったので、武士の身分に準ずる儒学者、医者、画家などが、多く暮らすことになりました。
俳人の宝井其角、浮世絵師の東洲斎写楽、日本地図を作った伊能忠敬、赤穂浪士の堀部安兵衛など、中央区で馴染みのある人物の名前が連なります。
そこには与力で歌人の、加藤枝直と千蔭父子や、狩野派の画家が多く暮らしていたことでも有名です。
楓川・八丁堀(桜川)・亀島川・日本橋川と、水路に恵まれ、職人が多く住んだ町でもありました。
木材問屋や炭薪問屋が集まる、問屋街としての成り立ちがあります。
そして明治、大正、昭和へ。
町名が変わり、鉄鋼問屋が多く集まってきました。
八丁堀は、東京を代表する鉄鋼の町になりました。
八丁堀のメイン通り、「鈴らん通り」。
今でこそ、ビジネス街の印象が強くありますが、市電が走っていた古き佳き時代は、映画館や寄席が軒を連ね、近隣からの買い物客で大いに賑わっていました。
今でも、ひとつ路地を入ると、時の流れが変わるような、不思議な感覚にとらわれることがあります。
小さな問屋が肩を並べ、昔ながらのお惣菜屋さんがあり、軒先には鉢植えが並び、人の生活の匂いが伝わってくるのです。
そして、鈴らん通りには、秋山三五郎商店があります。
湊っ子にとって親しみのある、鉄砲洲稲荷神社の宮神輿は、先代が手がけられました。
その街の歴史を物語る、”絵のある歩道”。
今回も、素敵な歩道に出会うことができました。
やっぱり、中央区の歩道っておもしろいですね!
※現在、残念ながら、撤去されてしまった箇所もあります。
中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん
第71号 令和元年12月10日