(仮称)「江戸の髪型集と理容の歴史・大野グループの展開」 ②
~ Hair Salon ONO 艶出専科本店 ~
『ギフト、そして自分も楽しむ』を有効なデジタルコンテンツとして取材します、rosemary sea です。
ヘアサロン大野グループさんのお店「艶出(つやだし)専科本店」の建物左脇には、とても目を惹くショーウィンドーがあります。
まだ仮称の段階ですが「江戸の髪型集と理容の歴史・大野グループの展開」と言うそうです。
手前に丁髷(ちょんまげ)16種、奥には「理容歴史散歩」と「大野理髪店ーヘアサロン大野グループの歴史」が併記されています。
2月15日に第1回として「丁髷」をご紹介しました。
今回はその第2回としまして「理容歴史散歩」と「大野理髪店ーヘアサロン大野グループの歴史」をご披露されていただきます。
Hair Salon ONO 大野グループ代表 大野悦司(おおの えつじ)さんに、今回もお世話になりました。
それでは「理容歴史散歩」から・・・
理容歴史散歩 其の一
■ 粋だね、江戸の浮世床。
式亭三馬が著わす浮世床。
江戸時代は「日髪(ひがみ)」と言って、毎日、髪結床に通う者がいたほど男性は髪の手入れに気を遣っていたそうです。
髪結床は朝早くから夜遅くまで営業していて、町人の会所的な場所でした。
うわさ話は飛脚より速く、情報センター的な役割を果たしていました。
理容歴史散歩 其の二
■ 西洋の利用文化史
1705年、ロシアのビョートル大帝が髭税を制定しました。
日本より髭皿を輸入、18世紀からかつらがおしゃれの中心になりました。
1789年のフランス革命後の男性は、貴族に見られた長いスタイルやかつらがなくなりました。
19世紀中頃、ビクトリア朝、紳士淑女のモラルとマナーを規定、世界に大きな影響を与えていきます。
19世紀末期になると、後頭部を短く刈り込んだスタイルがポピュラーになり、今日の標準的な男性のスタイルになりました。
理容歴史散歩 其の三
■ アメリカのダンディズム
19世紀末、アメリカでは南北戦争後、多くの移民が流入しました。
理容は黄金期を迎えましす。
理容店に集う人たちから、バーバーショップカルテットが誕生します。
理容歴史散歩 其の四
■ 理容店のシンボル「サインポール」
近代以前の西洋では外科医が理髪店を兼ねていまして、理容外科医と呼ばれていました。
傷を治療したり、歯を抜いたり、そして血を抜いたり。
なぜなら病気は悪い体液によって起こるとされていましたので。
腕の血管を切り血を抜く際、赤い棒で持ち腕を固定しました。
この棒に風で包帯が巻きつき、これが「サインポール」の原型となったそうです。
青い色が加わりましたのは、イギリスで理容師と外科医が枝分かれした際、とか、アメリカ星条旗の青が愛国心の高まりによりプラスされた、の諸説があります。
理容今昔アラカルト
■ 断髪から紳士へ
明治維新、文明開化の号令のもと、断髪令により男性は丁髷を切ることに。
紳士をつくることが国策となり、大英帝国の紳士を手本に、日本の「理容」は始まりました。
当時から男性の美顔術・美爪術は紳士のたしなみでした。
■ 紳士の定着、そして抑圧も
欧米諸国と肩を並べるようになった頃、日本の理容も本格的な技術体系が整い、紳士の身だしなみとともに全国に普及しました。
ヘアケアやスキンケアも理容師が広めました。
おしゃれ意識は広がり、モボ・モガが出現しました。
しかし大恐慌から戦争の時代になると「贅沢は敵」となり、おしゃれ意識も抑圧されていきました。
■ 戦後から高度成長へ、
若者文化の誕生
敗戦後の日本、昭和30年代には高度経済成長期に入りました。
団塊世代が消費者として登場し、若者文化が誕生しました。
一億総中流時代から石油ショックへと続きます。
■ 多様化する自己表現
2度の石油ショックを乗り越えて、バブル景気を迎えます。
「贅沢は素敵だ」と消費は加熱、ヘアスタイルも多様性が増し、紳士像は古いものになっていきました。
しかしバブルが崩壊すると「清貧」がキーワードに。
その後、大人文化が見直されるようになりました。
■ アナログからデジタルの時代へ
急速なデジタルネットワーク化は、生活様式・価値観を変えるきっかけとなり、消費行動は大きく変わり、「ものから心へ」。
「品格」がキーワードとなり、自分らしさ・ライフスタイルの確立が尊重され、大人の成熟した魅力が大きな価値となってきました。
■ ボーダーレス化
問われるスタンダード
急速に国際化するビジネスマンにふさわしいエチケットとマナー。
好印象を磨く力。
この流れに肉薄した理容サービスが続々と誕生しました。
■ バーバー新時代
リアルタイムで動いていく時代。
男女の理容・美容に対するニーズは止まることがありません。
和に入り、まさにバーバー新時代の到来です。
そこで求められるのは本物の技術、本物のサービス、ハイクオリティな人間的な心の触れ合い。
歴史の上に積み重ねられた理美容の世界、時代の進むべき進路にどんな橋渡しをしていくのでしょうか。
・・・続きまして「大野理髪店ーヘアサロン大野グループの歴史」です。
「大野理髪店ーヘアサロン大野グループの歴史」
大野理髪店・・・
日本橋生まれの生粋の江戸っ子、先代・大野孝次郎氏は「近代理髪業の草分け」「大日本美髪会の重鎮」と言われる篠原定吉氏に師事し、芳町(現在の日本橋人形町)の本店ほか如水会館の支店を経験した後に、昭和9年大田区に独立開店、大野グループを創業されました。
【昭和23年】
日本橋本町に大野理髪店を移転開業。
「5分とお待たせいたしません」を壁に書き、営業しました。
【昭和34年】
日本橋2丁目に本店移転。
「あなたの心の散歩道」を旗印に、指先のお手入れマニキュアを他に先駆けて導入。
【昭和40年】
大阪に堂島店開店。
大野悦司氏、学業と理容師の両立をスタートさせた。
【昭和44年】
大野悦司氏渡欧、パリの「オートコワクール」モリナリオ店・クロードマゼ店との姉妹関係を結んで帰国。
【昭和45年】
西武百貨店・堤清二氏の要請を受け、静岡に「日本橋大野」出店。
大野悦司氏、店長として個室を作る。
【昭和48年】
日本橋本店を個室3室に全面改装。
調光システム採用、床には大理石を配した。
【昭和54年】
白金・都ホテル出店。
【昭和55年】
青山店開店。
忙しい商社マン向けの「お任せコース」が話題に。
【昭和60年】
創業者・大野孝次郎氏逝去。
二代目・大野悦司氏、クループの代表に就任。
【昭和61年】
大阪・ヒルトンインターナショナルに、すべて個室のラグジャリーサロン空間を構成。
5万円の「ゴールデンキーコース」が話題を呼びました。
【平成元年】
堂島店移転。
快眠倶楽部として快眠ルームやシャワー室を備え、五感にこだわりました。
【平成7年】
阪神淡路大震災の際に堂島店のシャワー室を開放。
【平成8年】
帝国ホテル大阪店開店。
【平成12年】
日本橋本店をすべてプライベート空間に衣替え。
忙しいビジネスの隙間も活かせる時間割コースを設定しました。
【平成17年】
日本橋に「錆びない男の艶出専科」を開店。
【平成18年】
大阪・阪急百貨店メンズ館に「PLUS MENS」をオープン。
【平成21年】
蒲田店を、個別空間や耳かき専門部屋を加えた「バルビエ」として全面改装。
女性シェービング、ネイルなどワンランク上のサービスを充実させる。
また、ロンドン・メイフェアにあるジェントルマンズトニック「GT」と業務提携。
輸入総代理店としてGTメンズコスメ販売を始める。
【平成22年】
日本橋再開発に伴い、日本橋室町2丁目から3丁目の現在地に移転。
中央通りに「艶出専科」、また、銀座線三越前駅に連結する地下1階に「iki」をオープン。
【平成23年】
堂島店に「美容室エンジェル」「耳かき専門店 ほっこり部屋」を加え、「iki」として全部屋個室スタイルに改装。
【平成25年】
赤坂ニューオオタニ本館とタワー館の理容店を「ヘアサロン大野」に改称し、リニューアルオープンした。
【平成27年】
海外(ベトナム)に初出店。
【平成30年】
青山店を移転開店、「Berbering Method」としてオープン。
【令和元年】
ホテルニューオータニ大阪店を暖簾分け第1号とする。
また、ベトナムハノイに2号店オープン。
・・・最後に、大野代表へのインタビューです。
大野代表インタビュー
うちは「ちょんまげ」を作ったことも、「ちょんまげ」を結ったこともありません。
床屋の歴史もないですが、ただ、この中央通り、熈代勝覧(きだいしょうらん)に示されているように、江戸の中心の商店街ですよね、街並みがね。
ところがどんどん新しくなって、ますます江戸が遠くなってしまう。
全国、世界からもインバウンドでオリンピックが来ると、どこが江戸なのかな、という感じがするので。
我々理容業としては、髪型でちゃんと江戸を伝えとかなきゃいけないんじゃないか、と。
だから江戸時代初期・中期・後期と代表的な髪型を展示しています。
歌舞伎のスタイルも3種類入れて、それから大相撲の大銀杏も入れて。
今のところは準備の最中ですけど、髪型の名前とか見分け方とかの解説本を作らないと意味がないのかな、と。
それから一応中央区の方にも、これ、「まちかど展示館」にならないのか、と、働きかけをしています。
だからまだ名前も仮称で、「まちかど展示館」になるにはこういう名前にしてくれ、と言われるかもしれないし。
(以前にもありました、後ろの「歴史」の説明文は)店の数も増えたので、(文の)量が多くなったので、屏風型にしたんです。
これだけでも大変お金がかかっています。
「ちょんまげ」1体20万円とかかかっていますから。
オーダーですから、「山田かつら」さんにお願いして。
日本駄衛門のが、髪が多いから一番高いんですよ。
「三把刀(さんばとう)」という言葉があります。
中国人は、
・ 料理人の使う刃物
・ 洋服を切る鋏
・ 理容師の鋏
この3つの「かたな」があれば、世界中どこでも仕事ができる。
明治の初期、神戸では上海から中国人がどんどん来て、中国人が西洋理髪を広めたんです。
レザーとか入るのが遅れたんです。
神戸の床屋さんは日本剃刀(にほんがみそり)をずっと使っていたんです。
横浜は西洋人の理髪師が来て、直接「西洋式のカット」を学んだんですね。
横浜が一番西洋人が多かったし、客船もたくさん来ました。
そういう人たちの中で、自分で顔を剃らないで、理髪店に剃ってもらうんだけど、(西洋人の)理髪師もそんなにいないから、最初は日本人の理容師が日本剃刀で剃っていたけど、チップもたくさんもらえたそうです。
だからレザーを買ったり、椅子を買ったり、鏡を買ったり。
東京はね、横浜へ行って一生懸命学んだんですね、客船とか入ったりして。
日本橋に「海運橋」という橋がありました。
東京で一番最初に本格的に西洋式の理髪店を出したのは、その橋のたもと、「二階床(にかいどこ)」というお店。
横浜で稼いだお金でレザーや椅子、鏡を買うことができて。
最初は西洋人から買って、そのうちに輸入したと思います。
そういうのがうちのお店の店内(艶出専科本店)で、バリカンとか展示されています。
・・・大野代表、ありがとうございました。
Hair Salon ONO 艶出専科本店
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営業時間 月~金 10:00~21:00
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