滅紫

玄冶店のお稲荷さん「橘稲荷神社」

人形町通りの歩道上に「史蹟玄冶店」の記念碑があります。「明治百年」の記念に立てられたものです。ご存じの通り、「玄冶店」の名前は幕府の御殿医だった岡本玄冶の拝領した町屋敷に因んだもの。というより「お富与三郎」「切られ与三」の通称で知られる歌舞伎の「与話情浮名横櫛」の「源氏店」のモデルとしての方が有名でしょう。「冶」を「治」に置き換えると「げんじ」となりそこに「源氏」という字をあて芝居の舞台にした。とのことです。(松竹・歌舞伎人)

「岡本玄冶(天正15年ー正保2年1587-1645)は曲直瀬玄朔(二世道三)に医を学び、その学院の長となって諸生を指導、玄朔の娘を娶りました。家康・秀忠・家光三大に仕え、2年ごとに江戸に赴き、在京中は天皇を拝診した」と新潮社人名辞典にあります。天然痘を患った家光を快癒させたことは有名ですが、その折り、治療法を巡って春日局と渡り合い、やり込めたことでも知られています。(「公方様の話」三田村鳶魚)

*曲直瀬玄朔の曲直瀬家は代々典薬頭を務め「道三堀」の名前の由来になっています。

 玄冶店のお稲荷さん「橘稲荷神社」

橘稲荷神社はこの岡本玄冶の屋敷に祀られた屋敷神。

由来書によれば「初めは御殿山にあったものが、後に江戸城内に移り、さらにこの地に邸宅を与えられた御殿医・岡本玄冶に賜り当地に移された。橘は岡本家の元姓に因んだとされる。」とあります。

「屋敷神」は元々は近隣の山林で先祖の魂を祀ったものですが、明和・安永年間(1764-1781)、小姓から老中にまで異例の出世をした田沼意次の屋敷内に稲荷が祀られていたことから、大名や旗本の屋敷にお稲荷さんを祀ることが流行、これが町人にも広がり大ブームとなったそうです。

 玄冶店のお稲荷さん「橘稲荷神社」

嘉永六年の尾張屋版の切り絵図です。中央左よりに「ゲンヤタナ」「橘イナリ」が見えますね。

「史蹟玄冶店」記念碑  人形町3-8先

「橘稲荷神社」人形町3-8-6(人形町A4出口)