■中央区歴史逍遥〈16〉 二人の川柳点者 ~八丁堀同心の四世と佃島の五世~
佃の住吉神社境内に「五世川柳 水谷緑亭句碑」が建っている。五世川柳は八丁堀同心の四世川柳・人見周助から譲位されたものであった。この2人の川柳点者は、共に二世川柳・柄井弥惣右衛門の門人として学び、四世として、また五世として、江戸後期の川柳界で活躍し、江戸川柳文芸を受け継いでいった。
この句碑は昭和41年(1966)11月、佃住民によって建てられた。碑文は「和らかでかたく持ちたし人ごころ 五世川柳」。
四世川柳・人見周助 ~八丁堀の物書同心
四世川柳は本名人見周助。安永7年(1778)江戸の生まれ。町奉行所、南町二番組筒井伊賀守与力配下の物書同心だった。上図「八丁堀組屋敷細見図」には人見家(丸印)の記載がある。右図は『川柳百人一句』から四世川柳・人見周助画像。「狂句元祖 四世川柳『夜学にふけて埋火のほたる程』国貞写」。
二世川柳の門に入り、眠亭賤丸(志津丸=ねむりてい・しづまる)と号した。文化3年(1806)の『誹風柳多留』35篇に初見があるという。文化8年には賤丸撰、十返舎一九序があり、「狂句」の語が現れ、のちに俳風狂句元祖といわれた。
文政6年(1823)ごろから八丁堀の自宅で月例会を催したという。文政7年、三世川柳から四世号を引き継いだ。文政・天保の最盛期には四世川柳のもとに松浦静山や七世市川團十郎、十返舎一九、葛飾北斎、柳亭種彦などの文人たちが名を連ねていたようだ。天保8年(1837)に勇退、五世に道を譲る。天保15年(1844)2月5日死去した。享年66。編著『川柳百人一句』(天保5年)など。
五世川柳・水谷金蔵 ~佃島の名主
五世川柳は本名水谷金蔵。天明7年(1787)、南茅場町の生まれ。説明板によると「幼いとき父を亡くし、佃島漁師の水谷太平次に養われ、佃島の名主を務めた」という。右図は『川柳百人一句』から五世川柳・水谷金蔵画像。「『和らかでかたく持ちたし人ごころ』岸姫松連 鯹斎佃」
(注)号の読みは「なまぐさい」だが、表記が異なる。
・図版 :「鯹」(セイ)=なま魚のにおい ⇒ 〇
・説明板:「腥」(セイ)=豚、鶏などの肉 ⇒ ×
文化年間(1804-1818)の初め、川柳二世の門に入り、鯹斎佃(なまぐさい・たつくり)や緑亭と号した。二世没後は、四世の門人になる。天保8年(1837)50歳のとき、四世川柳・人見周助から譲り受け、五世川柳を名乗った。
天保11年(1840)、『誹風柳多留』167篇で終刊、翌年『新編柳多留』を刊行する。安政5年(1858)8月、コレラに罹り病死。享年71。築地本願寺に葬られたという。「義父母に孝養を尽くし、佃島の風俗を矯正したなどの功績により、南町奉行所から3度にわたり褒章を受けた」と説明板に記されている。編著『狂句百味箪笥』『住吉社奉額狂句会』などのほか、草双紙や伝記物の著作も多いという。
川柳の原点 誹風柳多留発祥の地
京成上野駅舎の脇、中央通りに面して「川柳の原点 誹風柳多留発祥の地碑」が建っている。平成27年(2015)8月、柳多留250年実行委員会・台東区教育委員会が建立したもの。
説明板を抜粋すると「明和2年(1765)7月、呉陵軒可有(ごりょうけんかゆう)という人が、初代川柳評の勝句から、深い笑いのある句を選び、今日「川柳の原点」とも呼ばれる『誹風柳多留』を刊行した。この地付近には『誹風柳多留』の版元・星運堂(花谷久次郎)があり、同書を通じて「川柳風」の隆盛に貢献し、川柳を江戸文芸のひとつに育てた」とある。
記念碑の「羽のある いいわけほどは あひる飛ぶ」の句は、「木綿」を号とした『誹風柳多留』の編者・呉陵軒可有の作。(@AM)