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『江戸市中』とは

今回は「日本橋魚市場」の話を一休みして、『江戸市中』について話したいと思います。最近はテレビでも時代劇が放映されなくなりましたが、「(江戸)市中引き回しの上、獄門」とか「江戸市中を騒がす鼠小僧」という表現があったことを思い出します。池波正太郎とか佐伯泰英などの時代小説や時代劇ではよく聞かれますが、私が読む江戸時代関連の本では『江戸市中』という表現をほとんど見たことがありません。江戸時代にこのような文言は使われていたのでしょうか?

「江戸府内・絵本風俗往来」(菊池貴一郎著、青蛙選書9、昭和40年8月刊)という書物を手に入れ、そこに『江戸市中』に関する説明がありましたので紹介します。この書籍は、明治38年12月に東陽堂から刊行されたものの復刻版です。著者は天保以降江戸末期の生まれで、自ら見聞したものを挿絵と共に文章で紹介しています。著作当時既に70歳を超えていましたので、人生の前半を江戸の庶民として過ごしたのでしょう。

P.184に『江戸市中』に関する著述があります。現代語とは異なる表現は、編集しています:

江戸市中の中央は江戸城である。江戸城内堀以内を内曲輪と称し、外濠以内を外曲輪と称す。外曲輪以外を総して市中といいたり、市中の中央は日本橋である、日本橋より数丁(1丁=109m)四方、東は両国川、西は外濠、北は筋違橋、神田川、南は新橋の内を下町といいたり、・・・・・・を山の手と唱えり。

山の手は場末?

山の手は場末? 『江戸市中』とは

『江戸市中』とは外曲輪以外をいい、日本橋を中心に数丁四方を下町と称し、それ以外を場末と言っています。この場末に山の手が入っているのですが、現代人の感覚からするとちょっと納得できませんね。菊池貴一郎さんという庶民の感覚からすると、『江戸市中』は朱引きの内側の墨引きより狭い部分になります。

『江戸市中』に関する公式見解は、幕府目付・牧野助左衛門が1818年(文政元年)に市域の確定を求める「御府内外境筋之儀」について伺いを出すまで、幕府からは何ら得られませんでした。それを受けて同年12月老中阿部正精によって幕府の見解が示されました。公式の見解は「朱引き」であったようです。

ところで中央区観光協会のブログには、「CAM」さんと「にゃんボク」さんが2017年以来、「江戸っ子」という題で数本書かれています。興味があるかたは是非参照してみたら如何でしょうか。特にCAMさんは関西出身だからそろそろ生まれた大阪の方に引っ越したいと書いてあったように記憶していますが、本年3月にもブログを書いていらっしゃるようですので現在も中央区に関わられているのでしょう。今後も面白いブログ期待しています。