浅草寺『九世市川團十郎像ー暫』と浜町緑道『勧進帳の弁慶像』
江戸歌舞伎発祥の地でもある中央区の浜町と其の後に移転した台東区の浅草。歌舞伎役者像を2箇所をご紹介させていただきます。
創建628年(推古天皇時代)浅草寺には江戸末期から明治に活躍した歌舞伎役者『劇聖』と呼ばれた九世市川團十郎(1838~1903年)をモデルとした像(1919年建立 制作 彫刻家 新海竹太郎)があります。伝統的な様式美の史実に基づく歌舞伎『暫』が題材です。
人形町通りから明治座へ抜ける甘酒横丁の途中にある浜町川だった面影を残す浜町緑道に、勧進帳の武蔵坊弁慶像があります。江戸時代初期この地に歌舞伎の市村座・中村座や浄瑠璃等の芝居小屋が数多くありました。勧進帳は歌舞伎十八番の題材です。
浅草寺本堂裏側の一画が「新奥山」さらに西側に向かうと駐車場に高さ4mほどの台座付きの立像で、九代目市川團十郎像『暫(しばらく)』が立っています。
江戸時代二代目市川團十郎が荒事と呼ばれる大胆で荒々しい動きを見所に捉えた芸を確立し、市川團十郎家の礎を築きました。市川流家元にして市川一門の名跡です。九代目市川團十郎は江戸末期から明治にかけて活躍した歌舞伎役者です。伝統的な様式美や史実に基づく考証や演出を加味し、歌舞伎の近代化を図り、江戸庶民の娯楽としての歌舞伎を芸術性を伴う日本独特の文化としての価値を高めたことで功績を知られています。
九代目といえば九世市川團十郎を指すといわれるほど歌舞伎の歴史の中で重きをなす人物です。周囲を眺るかの如く「にらみ」を効かせています。
尚、團十郎の名跡は十二代目が亡くなった後しばし途絶えていましたが、実子である十一代市川海老蔵2020年に「十三代目市川團十郎・白鵬」を襲名することが発表されていました。コロナウィルスのために延期となりました。
この襲名は、歌舞伎ファンの大きな期待を集めています。
『暫』の主役、鎌倉権五郎景政は史実では平安後期の武将で平景正を模しており、悪を成敗するため、忽然と姿を現す際に「暫く」と一声高くよばわって、團十郎の代名詞でもある「にらみ」を効かせる場面を切り取っています。
これは九代目が江戸時代に特に決まった配役等がなかった「暫」を独立した物語(一帯物)として上演し、人気の演目となるきっかけとなったことに因みます。
現在の像は1986昭和61年に十二世市川團十郎によって再建されたもので、初代の像は1919大正8年に彫刻家 新海竹太郎の手により制作され建立されましたが、第二次世界大戦の金属供出で失われています。
能の『安宅』に基づいてねられた「勧進帳」は、頼朝に追われ、山伏に変装して出羽を目指して落ち行く義経と弁慶。加賀の国、「安宅の関」の関守の富樫がこれを見咎めて尋問します。弁慶は東大寺大仏が治承の乱で焼失したのを再建するための勧進であると言って、白紙の勧進帳を読み上げます。富樫は義経一行であるのを気づいていましたが、主従の心中を察し、同情の涙をこらつつ、敢えて関所を通るのを見逃します。
350年前、人形町あたりに葦屋町と堺町という町があり、江戸三座のうち市村座と中村座の二座が歌舞伎を上演している芝居小屋がありました。浄瑠璃による操り人形小屋もあり、人形製作と修理に当たった人形師達はこの周辺に住み、人形細工と人形の販売を生業としていました。これが人形町の名の言われとされており、ここ人形町界隈は商業も盛んで庶民の人気を集めていました。
明治以降、浜町には明治座や真砂座がありました。1873明治6年に喜昇座として、焼失と再建を繰り返していくうちに名前も千歳座、久松座と変わり、明治26年に初代市川左団次が買収して現在の明治座となりました。その後も東京大震災や東京大空襲でも再建され、明治座がこの地の観劇文化の歴史を継続しています。
日本橋人形町2丁目と日本橋浜町2丁目の間にある浜町緑道の中間通りで、設立当時は関所風の冠水門(かぶきもん)を組んでいたそうです。今は取り払われてありません。
浜町緑道(1974昭和49年に埋め立てられて、グリーンベルトになる)はかっての浜町川跡で、現千代田区神田佐久間河岸の神田川から分れ、清洲橋の下流付近で大川(隅田川)に交流し、物資輸送路などで賑わった運河(1615~23年に人工的な水路として掘割工事)でした。その面影が残る緑道には30種類をが超える木々が植えられており、春には桜が咲き乱れて桜祭りが行われています。ソメイヨシノや大島桜がきれいです。是非、春爛漫の頃にいらしていただきたいです。
(歴史群像 デジタル歴史館 TOKYO 銅像マップ 参照)