重要文化財【 日本橋 】の魅力
日本橋は、慶長8年(1603)徳川家康が江戸幕府を開いた際に交通の要衝として木橋を架けたのが始まりとされています。
そして、五街道(東海道・中山道・日光街道・甲州街道・奥州街道)の里程の起点として賑わいました。
現在の日本橋は、第20代目の橋として、明治44年(1911)に完成した石造り2連のアーチ橋です。
橋の長さ27間・幅15間、橋の表面に露出する部分は全て花崗岩を用いています。
橋の装飾と様式については、工学博士妻木頼黄(よりなか)氏が全体の監督者として指導にあたりました。
装飾は、橋の中央両側に高さ30尺の麒麟柱、橋の両端左右に高さ18尺の獅子柱の合計6基とし、さらに
その6基の間に燈柱各1基を建設した豪華なものです。
『熈代勝覧』に描かれた日本橋
東京メトロ「三越前」駅地下コンコースには、文化2年(1805)頃の日本橋地区が描かれた絵巻物
『熈代勝覧(きだいしょうらん)』の複製が展示されています。
この絵巻物には、神田今川橋から日本橋までの大通り(現在の中央通り)のお店や行き交う人々などが
描かれていますが、その左端(南側)には、大勢の人たちで賑わう日本橋の様子が見られます。
橋の四隅:獅子像
橋の四隅、親柱に据え付けられた青銅の獅子像は、奈良手向山八幡宮の狛犬などを参考として、
渡辺長男氏が制作したものです。
完成当時の東京市章を抱え、にらみを利かす獅子像は、東京の「守護」を表しています。
橋の中央:麒麟像
橋の東西中央に据え付けられたのは、青銅の麒麟像。
頭が龍、胴が鹿、そして羽が生えたような形の背鰭をもつ麒麟像も、渡辺長男氏の制作です。
今にも飛翔せんとするこの像は、完成当時の東京市の「繁栄」を表現しています。
袖柱の擬宝珠様の石
江戸時代、日本橋は、幕府の公儀橋として欄干の柱の上に「擬宝珠」を付けることを認められた格式の高い橋でした。
現在の日本橋は、石造りの橋となりましたが、橋の端部小さな袖柱の頂部に、その擬宝珠を窺わせる意匠がなされています。
乙姫広場(北詰東側)
日本橋橋詰は景観整備が行われており、その北詰東側は、「乙姫広場」として、かつての魚河岸を記念した乙姫像と「日本橋魚市場発祥の地」碑があります。
かつて、魚河岸は日本橋と江戸橋の間の北岸にあり、江戸時代、早朝から多くの買い物客で賑わい、朝の魚河岸は、昼の芝居小屋、夜の吉原と並んで「一日で千両がおちるところ」とまで言われました。
その後、関東大震災により市場が焼失したこと等から、魚市場は、築地に移転、さらに現在は豊洲に移転しています。
元標の広場(北詰西側)
橋の北詰西側は、「元標の広場」として整備されています。
明治に入り、日本橋の中央が国道の起点と定められ、明治44年(1911)に「東京市道路元標」(写真中央)が建てられましたが、その後都電の廃止に伴い、この広場に移設されました。
現在、橋の中央には「日本国道路元標」のプレートが埋め込まれており、元標の広場でそのレプリカを見ることができます。
花の広場(南詰西側)
橋の南詰西側は、「花の広場」と名付けられ、植栽で飾られています。
ここは、江戸時代に高札場(幕府の法度などを木の板札に書き掲げる)があった場所で、昭和11年(1936)に旧日本橋区が設置した「日本橋由来記」の碑が置かれています。
また、平成29年(2017)には、「日本橋観光案内所」が開設されています。
滝の広場(南詰東側)
橋の南詰東側は、壁に水が流れ落ち、「滝の広場」と名付けられています。
平成23年(2011)には「日本橋船着場」が設けられ、日本橋川、神田川、隅田川等へのクルーズ船が発着しています。
江戸時代には、ここに晒し場が置かれ、主殺しや心中未遂の者などが見せしめのため晒された場所となっていました。