中央区の島物語〜幕末・近代の石川島
「東京全図 明治9年(1876)」(中央区立京橋図書館『中央区沿革図集〔月島篇〕』より)
前回、書かせていただいた「中央区の島物語〜江戸時代の石川島」では、あえて幕末の石川島には触れませんでした。
石川島は、幕末にすでに近代がいち早く始まっていたと言えるからです。
今回は幕末以降の石川島をご紹介します。
まずは、人足寄場から・・・
人足寄場は石川島監獄に
寛政2年(1790)に火付盗賊改・長谷川平蔵の建議を受けて設置された石川島の人足寄場は、明治3(1870)年に「徒場」と名を変え、以降「懲役場」、明治10年からは「警視庁石川島監獄署」と改称し、警察施設としての役割を果たしていました。
明治8年(1875)の郵便報知新聞には、石川島懲役場で囚人にも読み書き教育が行われている様子が掲載されました。(中央区立京橋図書館『中央区沿革図集〔月島篇〕』より)
明治28年(1895)獄舎の老朽化により近代的な監獄を設ける必要性が生じたことなどから巣鴨に移転しました。
現在の池袋サンシャイン60の場所にあたります。
石川島造船所の設置
日本最初の洋式軍艦「旭日丸」(中央区立京橋図書館『中央区沿革図集〔月島篇〕』より)
話を幕末に戻します。
ペリーが浦賀に来航した嘉永6年(1853)、幕府は石川島を造船所敷地と定めて、水戸藩に設立と運営を命じました。水戸藩は藩主・徳川斉昭を先頭に大型船建造用の造船所の建設に当たり、翌年この地で洋式木造軍艦・旭日丸(あさひまる)の起工式を行いました。
ここに我が国の近代的造船工業がスタートしました。
石川島平野造船所
「石川嶋造船所の図」明治34年(1901)(中央区立京橋図書館「中央区立郷土天文館 第13回特別展 月島百景」より)
明治維新を迎えると、石川島造船所は幕府から新政府の所管となり、艦船の修理や小艦、諸器具の製造を行いました。明治5年(1872)5月に横須賀造船所が完成し、艦船事業が移転し、石川島造船所は閉鎖されました。
閉鎖後の石川島造船所を借受、造船工場を引き継いだのが築地で印刷業を経営していた平野富治が明治9年(1876)10月、日本における最初の民間西洋型船舶の造船所である石川島平野造船所を設立しました。
明治22年(1889)に渋沢栄一・佐賀鍋島家・宇和島伊達家の出資により、会社組織となりました。
さらに明治44年(1911)芝浦製作所と協定を結び、造船のみならず、造機や鉄道旅客用車両製造、大型橋梁建設も手掛け、総合機器メーカーとなりました。
あの勝鬨橋も・・・
中央区内にも同社の造った大きな建造物が残されています。昭和15年(1940)に完成した跳開可動橋・勝鬨橋です。東洋一の可動橋と言われた勝鬨橋は、月島地域の交通を飛躍的に向上させ、工業発展に大きく寄与しました。
石川島資料館
戦後、石川島播磨重工業株式会社と社名を変更し、この地で造船を始め様々な産業分野で先進的な製品を生みました。
石川島播磨重工業株式会社(現I H I)は、昭和54年(1979)にこの佃工場を閉鎖しました。
跡地に立つリバーシティ21内には、石川島資料館があります。資料館では石川島・佃島の歴史や文化と共に、I H Iの製品や技術を伝える貴重な写真や資料を見ることができます。日本初や世界初のものをたくさん生み出していることに驚かされます。
中央区佃1−11−8ピアウエストスクエア1階
開館日:水曜・土曜 開館時間等はHPをご確認ください。
参考資料:中央区立京橋図書館『中央区沿革図集〔月島篇〕』
中央区立京橋図書館「中央区立郷土天文館 第13回特別展 月島百景」
石川島資料館パンフレット「石川島からIHIへ 石川島資料館」