茅場町駅・八丁堀駅周辺の静かな佇まいの神社めぐり ③
~ 渡海稲荷神社【跡】 ~
『ギフト、そして自分も楽しむ』をアクセシビリティーに対応して取材します、rosemary sea です。
「茅場町駅・八丁堀駅周辺の静かな佇まいの神社めぐり」シリーズ、第3回の今回は、渡海稲荷神社(とかいいなりじんじゃ)【跡】をご紹介します。
それでは・・・
「永代橋」の手前、「新川の跡」の石碑の隣り、ですが・・・。
冒頭の画像をご覧になっても「神社」、もしくは「神社跡」には見えませんよね。
数年前までは「渡海稲荷神社」の社標が掲げられておりましたが、現在はそれもなく、「新川1丁目東町会事務所」の看板のみ。
深川稲荷神社の兼務社と思われます。
宝永元年(1704年)に創祀。
ここは船着場でしたので、「渡海」と称されるようになったそうです。
・・・「渡海稲荷神社」につきましてはここまでとします。
せっかくですから、「永代橋」と「新川の跡」につきましてご紹介申し上げます。
永代橋(えいたいばし)
< 重厚でたくましい 鋼アーチ橋 >
最初の橋は、徳川5代将軍綱吉の50歳を祝して元禄11年(1698年)に架けられたといわれ、現在の架橋位置より150mほど上流にあった。
その後も何度となく架け替えが行われ、大正15年(1926年)には震災復興事業の一環として現在の橋に架け替えられた。
重厚でたくましい外観は、男性的と形容されることもある。
ー 歩いてわかる 中央区ものしり百科 より ー
新川の跡(しんかわのあと)
新川は、現在の新川1丁目3番から4番の間で亀島川から分岐し、この碑の付近で隅田川に合流する運河でした。
規模は延長約590m、川幅は約11mから約16mと、狭いところと広いところがあり、西から一の橋、二の橋、三の橋の3つの橋が架かっていました。
この新川は、豪商河村瑞賢(かわむらずいけん)が諸国から船で江戸へ運ばれる物資の陸揚げの便宜を図るため、万治3年(1660年)に開さくしたといわれ、一の橋の北詰には瑞賢が屋敷を構えていたと伝えられています。
当時、この1番は数多くの酒問屋が軒を連ね、河岸にたち並ぶ酒蔵の風景は、数多くのさし絵や浮世絵などにも描かれました。
昭和23年(1948年)、新川は埋め立てられましたが、瑞賢の功績を後世に伝えるため、昭和28年(1953年)に新川史跡保存会によって、「新川の碑」が建立されました。
今回も江戸古典落語をご披露させていただきます。
第30回を迎えました。
今回はその名のとおり、「永代橋(えいたいばし)」をご紹介します。
描かれています「橋げたの崩落事故」は、それ自体ノンフィクションです。
文化4年(1807年)のことでした。
なお、他の噺では「佃祭(つくだまつり)」でも、永代橋が舞台となっています。
<事前確認コーナー>
多勢に無勢(たぜいにぶぜい)・・・
相手が多人数なのに、少人数で向かっても勝ち目のないこと。
「永代橋」
御徒町の古着屋太兵衛と、その同居人武兵衛、どちらもとてもそそっかしい人間です。
ある日武兵衛は深川八幡のお祭りに出かけました。
途中の永代橋の付近は大勢の人通り。
武兵衛は人込みの中で紙入れ(財布)を盗まれてしまいます、いわゆる「スリ」にあってしまいます。
しかたなく家に帰ろうとして知り合いにばったり会い、八丁堀の家でごちそうになります。
そのうち外が騒がしくなります。
永代橋が落ちて多くの死人が出た、とのこと。
武兵衛はその晩はそこに泊まり、翌朝の帰り道で太兵衛に会います。
お上からの呼び出しで、永代橋の事故で死んだ武兵衛の死骸を引き取りに来い、と。
二人は事故現場で武兵衛の死骸というものに対面します。
太兵衛「引き取って葬式を出せ」
武兵衛「死んだ心持ちがしない、似てないし、自分で葬式を出すのは嫌だ」
太兵衛「言うことを聞け」と、武兵衛の頭をポカリ。
二人はけんかをし始めます。
役人が来て、
「武兵衛から紙入れをすったスリが永代橋の事故で死んで、紙入れから武兵衛が死んだことになってしまったということ、人違い」と。
「武兵衛、その方は太兵衛には敵わぬ、太兵衛(多勢)に武兵衛(無勢)は敵わぬ」
渡海稲荷神社【跡】
新川1-31-4
永代橋の手前を右折、突き当り角になります。