茅場町駅・八丁堀駅周辺の静かな佇まいの神社めぐり ⑥
~ 徳船稲荷神社 ~
『ギフト、そして自分も楽しむ』をセットアップして取材します、rosemary sea です。
「茅場町駅・八丁堀駅周辺の静かな佇まいの神社めぐり」シリーズ、第6回の今回は、徳船稲荷神社(とくふねいなりじんじゃ)をご紹介します。
それでは・・・
御由緒
徳川期この地「新川」は、越前松平家の下屋敷が三方堀割に囲われ、広大に構えていた(旧町名「越前堀(えちぜんぼり)」はこれに由来する)。
※ 「越前堀」は大正12年(1923年)の関東大震災より戦後にかけて埋め立てられていきました。
その中に小さな稲荷が祀られていたと言う。
御神体は徳川家の遊船の舳(とも・へさき:船首のこと)を切って彫られたものと伝えられる。
明暦3年(1657年)、世に云う振袖火事(明暦の大火のこと)はこの地にも及んだが、御神体はあわや類焼の寸前、難を免れ、大正11年(1922年)に至るまで土地の恵比須稲荷に安置された。
関東大震災では再度救出され、昭和6年(1931年)隅田川畔(現中央大橋北詰辺り)に社を復活し町の守護神として鎮座したが、戦災で全焼。
昭和29年(1954年)同処に再現のあと平成3年(1991年)中央大橋架橋工事のため、この地に遷座となる。
例祭は11月15日である。
とても小さな神社ですが、バックに「亀島川」と「南高橋」、それとビル群を従えたかたちの、自然と都会の融合を図る神社に思えてきます。
今回も江戸古典落語をご披露させていただきます。
第33回です。
「徳船」を逆にすると「船徳(ふなとく)」ですね。しかし2020年7月28日の「新参者 10年を考察 番外編」① 中の第7回でご紹介済です。
「徳」という字からは、「十徳(じっとく)」も連想されますが、こちらも既に「人形町駅から行ける、静かな佇まいの神社」NO.26 中の第18回でご紹介しました。2020年9月28日です。
今回は、「山崎屋(やまざきや)」をご紹介します。
「徳次郎」が、登場人物にいますので。ときには「徳三郎」「徳さん」となっていることも。
<事前確認コーナー>
(今回は特に噺が難解です)
親元身請け・・・
保証人が請け戻す形にして、ご祝儀などもろもろの出費をなくす「身請け」の方策。
一般人がこれを名分に行うこともあったようです。
鳶頭(とびがしら)・・・
鳶(建設業・高所作業者)の親方。
掛取り(かけとり)・・・
つけのお金を回収に行くこと。
にんべんの二分の切手・・・
商品券発祥のお店・にんべん「日本橋本店」・天保2年(1831年)・六代目高津伊兵衛が、いつでも鰹節と引き換えられる「商品券」(「切手」と呼ばれていました)を売り出しました。
ー はじめて物語マップ(中央区観光協会) より ー
北国(ほっこく)・・・
大旦那は「加賀のお殿様のお屋敷」の別名、嫁は「吉原」の別名、と、思っています。
道中・・・
大旦那は「大名の参勤交代」、嫁は「吉原の花魁道中」を頭に描いています。
六十六部・・・
全国66か所の寺社に法華経の一部を奉納に歩く巡礼者。「六部」と言うことも。
ここではこれに天狗が取り憑いたのだから余計に足が速い、と言っています。
三分・・・
花魁を呼ぶ料金。これを払ったので、新造(しんぞ)と呼ばれるお供の見習いさんが付いてきた、と言っています。
「山崎屋」
日本橋横山町のべっ甲問屋・山崎屋の若旦那、徳次郎、吉原の花魁に惚れてしまいます。
そこで番頭にお金を用立てて欲しい、と頼みます。
番頭は、どうせなら「身請け」をしたら、と勧め、それも「親元身請け」で、と作戦を授けます。
・・・ここから後は、番頭の筋書き通りに事は進みます。
元花魁は身請け後に、鳶頭に預けます。
番頭は百両の掛取りに徳次郎に行かせます。
徳次郎、そこで百両のお金は鳶頭に渡し、「百両、財布ごと落とした」と大旦那に報告します。
そこに鳶頭がやってきて、「財布を拾った」と。番頭が受け取ります。
大旦那、鳶頭にお礼に行きますが、番頭の言う通り鳶頭、にんべんの二分の切手は受け取りますが、十両のお礼は返してきます。
気を良くした大旦那の前に、茶を出してきたのが鳶頭の奥様の妹という筋書きの、しかもお屋敷勤めから戻ったという綺麗なお嬢さん(実は元花魁)。
「せがれの嫁に」ということになり、徳次郎と元花魁は、番頭の目論見通りに夫婦となりました。
大旦那、後日嫁に尋ねます。
「どこに勤めていたのかい?」
嫁(元花魁)「北国にございます」
大旦那「加賀様か、道中はするのかい?」
嫁「夕刻に出まして、伊勢屋へ行って、大和、長門、長崎・・・」
大旦那「ちょっと待ちなさい、夕刻に出て伊勢から大和、長門、長崎なんて、諸国を歩くは六十六部、足の達者が飛脚屋と、お前には六部に天狗が憑いたのかい?」
嫁「いいえ、三分で新造がつきんした」
南高橋
創架年代は、昭和6年(1931年)に起工、昭和7年(1932年)3月に竣工。
現在の南高橋の地には江戸には木橋は架橋されておらず、亀島川上流に「高橋」があったのみでした。
関東大震災ののち、街路の大規模な区画整備が行われた時に、当時の本湊町と対岸の越前堀1丁目との間の「亀島川」に、新しく橋を架けることになりました。
東京市は、多くの橋を改架したため、予算も乏しくなりました。
そのため明治37年(1904年)に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて「南高橋」として架設したのです。
都内において、珍しくも明治37年のトラス橋の一部が現在に残ることとなり、その意味でも近代の土木遺産として貴重です。
都内に残る鋼鉄トラス橋としては、江東区に移転した八幡橋(旧弾正橋)についで2番目に古く、車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては全国で6番目に古い橋梁になります。
区民有形文化財に登録されています。
歌舞伎座前より乗合自動車に乗り鉄砲洲稲荷の前にて車より降り、南高橋をわたり越前堀なる物揚波止場に至り石に腰かけて明月を観る。
石川島の工場には燈火煌々と輝き業務繁栄の様子なり。
水上には豆州大島行の汽船二三艘泛(うか)びたり。
波止場の上には月を見て打語らう男女二三人あり。
岸につなぎたる荷船には頻(しきり)に浪花節をかたる船頭の声す。
ー 昭和9年7月 永井荷風「断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう)」より ー
徳船稲荷神社
新川2-20
南高橋のたもとです。
前スポットの「於岩稲荷田宮神社」からは、もう一度「鍛治橋通り」に出て左方向へ約200m、南高橋の手前右にあります。