茅場町駅・八丁堀駅周辺の静かな佇まいの神社めぐり ⑦
~ 鉄砲洲稲荷神社 ~
『ギフト、そして自分も楽しむ』をグランドールに取材します、rosemary sea です。
「茅場町駅・八丁堀駅周辺の静かな佇まいの神社めぐり」シリーズ、第7回の今回は、鉄砲洲稲荷神社(てっぽうずいなりじんじゃ)をご紹介します。
それでは・・・
御由緒
鉄砲洲稲荷神社は、江戸湊の入口に鎮座する神社として、地域の人々の信仰を集めてきました。
神社は、寛永元年(1624年)頃、稲荷橋南東詰に遷(うつ)りましたが、明治元年(1868年)現在地に移転し、今日に至っています。
関東大震災により被害を受けた境内は昭和10年(1935年)より復興、整備され、正面中央奥に社殿、左手に神楽殿と摂社八幡宮、右手に社務所と手水舎が向かい合うように配置され、境内西南隅に神輿庫が設けられています。
また、西北隅には富士山の溶岩で築いた富士塚があり、そこを富士信仰の場としていました。
むかしの富士塚は「江戸名所図会」にも描かれた有名なものでした。
境内は昭和初期の神社建築とその配置の有様をよく伝えており、また、富士塚も区内唯一の富士信仰の名残をとどめている点から、ともに中央区民文化財に登録されています。
京橋地区の生成(いなり)並びに鉄砲洲稲荷神社の御由緒
鉄砲洲の地は、徳川家康入府の頃は、既に鉄砲の形をした南北凡(およ)そ8丁の細長い川口の島であり、今の湊町や東部明石町の部分が之(これ)に相当します。
寛永の頃は此処(ここ)で大砲の射撃演習をしていたので、此の名が生まれたとも伝えられています。
昔の海岸線は、現在のものより遥かに奥まったものであって、八町堀(八丁堀)の掘られたのが慶長17年であり、京橋あたりの土地形成が、天文の頃、足利義輝の治世になっていますが、之等(これら)京橋地区一帯の土地生成の産土(うぶすな)の神こそ、現在の鉄砲洲稲荷神社の生成大神(いなりのおおかみ:生成太神とも)であります。
遠く平安時代初期の人皇第54代仁明天皇の承和8年(841年)に年来打ち続く凶作に教えられる所あって、此の土地の住民達が自らの産土の国魂神を祀り、万有の生命を生かし、成し給う大御親生成の大神として、仰いでその神恩を感謝し奉り、日常の御守護を祈願致しました。
ところが此の御鎮座の地が、当時の東京湾の最も奥に位置していました為に、港として諸船舶の出入繁く、霊験のあらたかなる神徳と相まって当然の結果として船乗人の崇敬が頗(すこぶ)る厚くなりました。
その後埋立が進行して、現在の京橋のあたりへ御遷座となり、更に室町末期の大永年中に氏子崇敬者達の願望によって又新しい海岸へ遷座し奉って、八町堀稲荷神社と称しました。
今の新京橋の近くであります所が更にその後年にも埋立が進行して海岸が当方へ移りましたので、寛永元年には南八町堀地続きとなった鉄砲洲に生成大神を御遷座申し上げ、従来から鉄砲洲御鎮座の八幡神社を摂社とし、以って今日の鉄砲洲稲荷神社の基礎を築かれました。
此の時代を通して江戸で消費する米、塩、薪炭を始め、大抵の物資は悉(ことごと)く此の鉄砲洲に入って来ました為に、大江戸の海の玄関に位置する此の「鉄砲洲に御鎮座の生成大神は、船員達の海上守護の神としても崇敬されました。
港が横浜や芝浦に移転してしまった現在でもなお、特殊神事冬至開運祈願祭に授与する「金銀富貴」神札等は、全国的に篤く崇敬されて、諸諸方々の人々から拝載されています。
抑(そもそ)も此の神札は、此の土地の氏子達は勿論のこと、全人類をして悉く、「富み且つ貴(たっと)からしめたい」との御神慮に基づくものであります。
さて、我等は如何にして富み且つ貴くなる事が出来るかと言うに、それには各自悉くが自分の親を大切にして先祖を供養し、子孫の為に善根を培(つちか)って行けば、人も自分も、先祖も子孫も、此の世にもみんな救われて永遠の生命に生きることが出来ます。
また天地生成の恵みに感謝し、人のお蔭様に報恩の誠を捧げて行けば、必ず富み且つ貴い運命を開く事が出来ます。
此の運命開拓の御催促と共に、力の不足に対する、力の本源である大御親神から愛子への愛の御力添えが、此の金銀富貴の神札であります。
江戸時代は八丁堀の船入堀(ふないりぼり)に架かる稲荷橋近くの河岸地(かしち)にあり、諸国の廻船(かいせん)が出入りする湊にあったことから「湊稲荷」と呼ばれていた。
明治元年(1868年)、築地外国人居留地が開設された関係で、現在地に移転した。
現在の社殿は関東大震災後の昭和10年(1935年)に造営されたもので、礼拝を行う「拝殿」、奉献を行う「幣殿(へいでん)」、祭神を安置する「本殿」が連続する権現(ごんげん)造りになっている。
神楽殿や摂社・手水舎などは昭和12年の再建と伝わる。
神楽殿は入母屋(いりもや)造りの木造建築で、屋根はすべて銅板葺になっている。
ー 「歩いてわかる 中央区ものしり百科」 より ー
寒中水浴大会
ー 氷柱を入れた水槽に浸かって禊(みそぎ)を祓う ー
鉄砲洲稲荷神社の境内では、毎年1月第2日曜の午前11時から水浴修行が行われる。
白い鉢巻と褌姿(ふんどしすがた)になった氏子衆は、氷柱を入れた水槽に浸かり、禊祓いと無病息災を祈願する。
ー 「歩いてわかる 中央区ものしり百科」 より ー
鉄砲洲稲荷神社例大祭
ー 神楽舞の奉納と鳳輦(ほうれん:屋根に鳳凰を飾った車)のねり歩きは必見 ー
5月に行われる都内で最初のお祭りということもあって、毎年都内外から多くの人々が参拝する。
古式ゆかしい神楽舞の奉納と、3年に一度の本祭りの鳳輦・本社神輿の渡御(とぎょ)は必見。
ー 「歩いてわかる 中央区ものしり百科」 より ー
今回も江戸古典落語をご披露させていただきます。
第34回となりました。
今回は、「鉄砲洲」の「洲」つながりで、「紀州(きしゅう)」をご紹介します。
<事前確認コーナー>
尾張徳川家・尾州家、紀伊徳川家・紀州家、常陸徳川家・水戸家、いわゆる御三家。
7代将軍家継危篤の折、次期8代将軍の本命は尾州公・徳川継友(つぐとも)でした。対抗馬は紀州公・徳川吉宗。
しかし尾州公は根回しが足らず、逆に紀州は藩が一体となり吉宗をバックアップ。
絵に描いたような逆転劇で、将軍職は吉宗のもとに。
尾張徳川家のその後・・・
継友は39歳で亡くなります。尾張藩主は弟の宗春(むねはる)に。
宗春は吉宗の「享保の改革」の倹約方針に逆らい、贅沢の限りを尽くします。
施策も真逆の「消費拡大」、挙句の果てに「藩の財政破綻」。
吉宗は宗春に隠居を命じます。
・・・とうとう末代に至るまで、尾張からは将軍が出ませんでした。
「紀州」
徳川家7代将軍ご他界の折、8代将軍候補は尾州公・継友、紀州公・吉宗の二人。
大評定の朝、尾州公がかごで登城する道すがら、鍛冶屋の前を通りますと、槌(つち)の音が「とんてんかん、とんてんかん」。
尾州公には「てんかとる(天下取る)、てんかとる」と聞こえます、幸先良し。
大評定では見栄を張り、「余は徳薄くしてその任にあたわず」と。
断っても改めて言葉がかかるだろうと、もったいぶってからそこで将軍職を受けようと。
ところが相手の紀州公も、「余は徳薄くしてその任にあたわず」と。
しかし続けて「しかしながら、天下万人のため、任官いたすべし」と。
これで次期将軍は紀州公に決まります。
尾州公、屋敷へ帰る道すがら、また鍛冶屋の前へ。
やはり「とんてんかんとんてんかん」、「てんかとるてんかとる」と聞こえます。
内心、紀州公が「やはり尾州公に」と言ってくるのではないか、とほくそ笑みます。
ところがそこに、鉄に水をさす音が・・・。
「きしゅう~(紀州)」
鉄砲洲稲荷神社
湊1-6-7
(前スポットの徳船稲荷神社より)
南高橋を湊方面へ渡り約180m、交番を左折、約50m先右側にあります。