桜やよい

向井将監忠勝の子孫と忠勝開基の深川陽岳寺向井家菩提寺とのつながりは強い絆で結ばれていました!

初代向井将監忠勝は6000石余りの領地を賜った大身の旗本でしたが、2代正方から9代まで2400石となった子孫の足跡を追いたくなりました。向井将監屋敷は兜町から1717享保2年に本所石原に屋敷替え(寛正諸家譜・江戸武鑑記載)の記録があります。享保2年の大火によって向井将監屋敷も焼失してしまったからです。移転先は墨田区区石原町のやや北側駒形付近にあたります。

陽岳寺には向井家の過去帳もあり、歴代のお骨も納められています。このお寺には向井家ゆかりの品々があるそうです。現在、緊急事態戒宣言中ですので、解除されたら資料等を見せていただきに伺いたいです。

陽岳寺案内版

陽岳寺案内版 向井将監忠勝の子孫と忠勝開基の深川陽岳寺向井家菩提寺とのつながりは強い絆で結ばれていました!

陽岳寺地図

陽岳寺地図 向井将監忠勝の子孫と忠勝開基の深川陽岳寺向井家菩提寺とのつながりは強い絆で結ばれていました!

【住所】135-0033 東京都江東区深川2-16-27

 

【アクセス】

地下鉄メトロ東西線・都営大江戸線 門前仲町駅

門前仲町交差点方面・・・東西線3・5番出口 徒歩5分(茅場町駅側の出口改札)
赤札堂・・・大江戸線6番出口 徒歩3分(出口改札はひとつです)

JR京葉線 越中島駅、半蔵門線 清澄白河駅・・・徒歩15分ほど

2代将監正方(まさかた)
1621元和7年12月15日生~1674延宝2年7月10日55歳没
貞昌寺付近「将監山」及び「廟所山」葬

初代忠勝の跡は御船手奉行を継いだのは次男忠宗ですが、長男正俊は忠勝の勘気を蒙り、高野山に蟄居。次男直宗は幼子を残して没したため、5男正方が2代となりました

1627寛永4年8歳で2代将軍秀忠に謁見しました。

1630寛永7年6月25日3代将軍家光の天地丸に乗船の時、父忠勝・兄直宗と共に従い、翌日26日将軍家光より時服3領、羽織1領を賜りました。1638寛政15年録米300俵を賜りました。

1641寛永18年12月4日兄直宗と共に父忠勝の遺跡を継ぎました。忠勝の知行地5000石を兄直宗、1000石(相模国三浦郡大津村・森崎村)を正方が知行しました。

1642寛永19年5月6日将軍家光を隅田川上流の狩猟に案内しての帰り、銭亀橋で干潮だったため船が浅瀬に乗り上げ船が動かなくなり、途中で陸に上がり、行程を大幅に狂わせてしまいました。「潮の干満を考えないとは職務怠慢も甚だしい」と怒った家光は、追って沙汰あるまで出仕に及ばずと厳命しました。もはや罪は免れないもの正方は覚悟しましたが、意外にも前年に役職を継いだばかりでしたので「若輩なるがうえに今回は許す」と温情あるお沙汰でした。父忠勝や祖父正綱の業績が高かったので正勝は許されたのかもしれません。

主君の温かい恩義に感動した正方は、身を挺して職務に励みました。

1644寛永21年6月兄直宗は38歳で没。直宗の長男直則の補佐役として水主同心50人を預かりました。

1645正保2年9月23日迄三崎番所・走水番所の奉行を仮役で兼任し、1645正保2年12月晦日に布衣を許されました。

1647正保4年10月直則が早世した為、御船手奉行となりました。石高は1000石に下げられました。

1650慶安3年父忠勝が建造した安宅丸の修理を命じられその役目を果たしたことで、将軍の羽織を賜りました。

1658万治元年5月4日4代将軍家綱が初めて御座船に乗船し、お褒めの言葉を戴き、将軍家綱より、時服3領、羽織1領を下賜されました。

1662寛文2年6月将軍家綱が安宅丸、天地丸に乗船の時、正方は御船手組の筆頭とし、将軍家綱に酒肴及び盃を献じました。

1662寛文2年6月11日職務勉励により、相模国三浦郡(三浦郡小矢部村・金谷村・池上村・不入斗村等)1000石加増され、2000石となりました。

安宅丸・天地丸・龍王丸の3船を預かり、渡辺五郎作某・惟木三左衛門某等水主50人を配下に加え、水主100人を預けられました。

1663寛文3年9月母の菩提寺を知行地相模国三浦郡大津村に臨済宗江庵を貞昌寺(神奈川県横須賀市馬堀町1-29-20竹林山貞昌寺)と改め、中興開基しました。

1674延宝2年7月11日55歳で没。江戸が見渡せる貞昌寺付近の「将監山」あるいは「廟所山」の山頂に埋葬されました。

御船手奉行として御召船頭・三崎番所・走水番所・浦賀番所御船手奉行とを兼務しました。

正方以降は江戸幕府御船手奉行とした江戸城を中心の任務地となりました。

3代将監正盛(まさもり)
1645寛永21年生~1705宝永2年11月15日60歳没
陽岳寺葬

正方の長男で1654承応3年7月9歳で4代将軍家綱に、謁見し、1663寛文3年18歳で小姓組番士となりました。

1667寛文7年父正方の務めを見習い、1674延宝2年9月御船手奉行となり、布衣を許されました。

1682天和2年4月21日上野の国新田郡(群馬県太田市)、下野国梁田郡(栃木県足利市)に400石を加増され、

知行地2400石となりました。

御船奉行としての典礼係の役職は9代目まで引き継がれました。

新大橋の御船蔵に入らず、大川に野ざらしになっていた天地丸は、建造後50年の歳月には勝てず、ボロボロになっていました。正方が修理してから32年経過していました。

かっての将軍家ご威光の豪華船がボロボロになると、口さがない江戸市民は、毎晩老いさらばえた声で「伊豆に帰ろう、伊豆に帰ろう」と泣いていると怪談話を言いふらしました

財政が逼迫してきた幕府は、正盛に解体を命じました。

1682天和2年9月18日に初代忠勝が1634寛永11年に建造した安宅丸解体を小笠原丹後長定、鍋島帯刀正恭と共に、建造から50年経過し、多額の維持費を要すること、巨体の為に隅田川での進退が自由にならず、無用の長物と化したと言われています。

1699元禄12年11月御船手奉行の職を辞し、「竹翁」と号し、60歳で没しました。

4代将監正員(まさかず)
~1733享保18年7月没年齢不詳
陽岳寺葬

正盛の長男。1699元禄12年11月父正盛の見習いをし、1703元禄16年家督を継ぎました。1682天和2年初代忠勝が建造した安宅丸を父正盛が解体し、向井家の水主同心は57人に減りました。

1717享保2年零岸島の役宅(中央区新川)が類焼し、金3千を賜って本所石原町(現墨田区石原)に建築しました。これも1721享保6年3月11日に焼失しました。

1719享保4年7月26日、8代将軍吉宗が船で中川筋へ放鷹に出かけた際、正員とその他の御船手頭が指揮を行いました。各隊から徒士3人ずつ選び出し、合計57人の泳ぎを披露しました。吉宗は紀州にいた時から水泳(観海流)達者であり、この催しを喜びました。

1721享保6年6月28日浅草川の川底に朽木が多く沈み、容易に取り除くことができずに難渋しました。正員は組下の水主同心を潜らせ、大部分を取り除き、吉宗から褒章を賜りました。

1723享保8年7月18日にも両国橋川筋で徒士、番士の泳ぎを披露し、その後も度々披露しました。

また、吉宗は大いに水泳を奨励し、紀州から岩倉郷重昌(岩倉流流祖)及び、門弟の吉田丹治・田原唯七など水泳熟練者を呼び寄せて、深川で番士や徒士に伝授する命じました。これにより水泳はより盛んになりました。

正員が向井流の流儀を整えたのは、おそらくこの時期だと推測できます。

1723享保8年8月巡見使として豆州(静岡県伊豆半島)・相州(神奈川県)・房州(千葉県)の浦々を調査しました。その時の調査で下田港が出入り不便である為、浦賀に船改所を移すこと・城ケ島に灯明がない為、船の通航が難しく夜間の対策を講ずるなどの処置を献策しました。

1724享保9年1月水主27人を増員され、合計84人となりました。

1732享保17年御船手の職を辞し寄合に列したが、1733享保18年7月に没しました。

5代将監政使(まさよし)
1717享保2年生~1757宝暦7年3月40歳没
陽岳寺葬

正員の長男。1733享保18年10月16歳で家督を継ぎました。病弱の為、小普請となり、1743年25歳で御書院番士となりました。

1753宝暦3年35歳御船手奉行となり、水夫84人を預かり、布衣を許されました。この間、河野勘右衛門通喬が目付に付き、御船手奉行を兼務して代行し、他家の御船頭が御船手奉行の地位につくことは許されませんでした。

6代将監政香(まさか)
生没年不詳(1748延享5年生?)
陽岳寺葬

政使の長男。1757宝暦7年6月9歳で家督を継ぎ、1768明和5年20歳で御船手奉行となり、水夫84人を預かり、布衣を許されました。この間、牧野織部成賢が目付と御船手奉行を兼務しました。

1786天明6年6月17日江戸で大雨が降り、千住・本所・深川で出水の救助船を指揮し、12日間帰宅せず、救出の指揮にあたりました。

寛政に入ると、外国船が日本海に出没するようになり、老中松平定信は海防に力を入れ、相州浦賀で御船手の調練を盛んに行うようになりました。

1791寛政3年より政香は養子の正直(まさなお)と共に相州浦賀、及び三浦に交替で任務に赴いて、水主の海上訓練を指導しました。

1794寛政6年8月検閲が行われました。政香が指導した水主の泳ぎは格別に優れていると評価され、政香は賞与を賜りました。この時、政香は病中であった為、名代として、正直が城に赴き、ご御賞の御墨付を賜りました。

政香は息子正直と協力して向井家系譜を整理して幕府に提出しました。

7代将監正直(まさなお)
生没年不詳(1768明和5年生)
陽岳寺葬

父は松平因幡康真の7男。6代政香の養子になり、将監の名を継ぎました。

1792寛政3年3月24歳の時、11代将軍家斉に謁見しました。寛政3年8月28日から御船手見習を務め、養父政香と共に向井家譜系の整理を行いました。

養父政香と共に相州浦賀、及び三浦に交替で任務に赴き、水主の海上訓練を指導しました

1798寛政10年御船手組の水泳上覧が浜御庭海手(浜離宮恩賜庭園)で行われました。正直は小姓組、小納戸衆と共に馬川渡(水馬)を披露しました。

1807文化4年3月正直は、4代正員が流儀を整え、正直が教義を整えた『向井流水法秘伝書』を編纂しました。これは向井家に代々伝えられた船手の泳ぎを整理した遊法・口訣・水軍の活用すべき技術方法と心得を記したもので、以後伝授書となりました。これは初代忠勝の祖父正重が武田信玄に求められ、1570永禄3年2月伊丹大隅守康直と共に船戦と船大将の心得を説いた甲州流水軍法「甲州流本殿船軍之巻」の内容も記されています。

1810文化7年2月26日幕府は江戸湾警備の為、会津藩に相州警備を命じました。1812文化9年6月会津藩士高津助之進・赤津志賀之助・肩峯勝興・石塚清英・生田勝政等5名は幕府の命により、正直の下に入門しました。この時正直は病の為、息子の正道が指導しました。

1818文政元年9月5名が免許皆伝し、会津藩に戻った為、会津藩では向井流が泳がれるようになりました。

8代将監正通(まさみち)
1796寛政8年生~没年不詳
陽岳寺葬

正直の長男であり、1815文化12年見習になり、1821文政4年9月家督を相続しました。

1818文政元年9月両国橋下で馬川渡(水馬)を11代将軍家斉に披露しました。

1826文政9年、1828文政11年、1829文政12年、1841天保13年には浜御庭海手(浜離宮恩賜庭園)で御船手組が水泳を披露、さらに1840天保12年7月、徒士・水主の水泳を深川安宅御蔵前(江東区新大橋)で披露しました。

1840天保12年7月は、天地丸に乗った12代将軍家慶に、徒士・水主の泳ぎ、抜手雁行・折紙(不明)・水筆(水書)・意泳(不明)・西瓜取(不明)等を披露しました。

1810文化7年2月26日幕府は、江戸湾警備の為、会津藩に相州警備を命じました。

1812文化9年6月会津藩士高津助之進・赤塚志賀之助・肩峯勝興・石塚清英・生田勝政等5名は幕府の命により父正直の下に入門したが、正直は病であった為に正通が指導にあたりました。

1818文政元年9月5名は免許皆伝し、会津藩に戻った為、会津藩では向井流が泳がれるようになりました。

1848嘉永元年8月江戸湾防備の為に房総海岸富津(千葉県富津市冨津)に宿陣していた会津藩士は、富津、竹岡港間の海上約16㎞を8時間で遠泳しました。この時の記念額は現在冨津市の文化財として木更津上総博物館所に保存されています。

1854安政元年大筒船打ち(不明)を安政元年12月海船(お仕送り船)を建造した功で褒賞を賜りました。

1856安政3年3月幕府は築地に講武所を設け、旗本御家人子息厄介の武術習得に力を入れました。

1857安政4年4月築地に軍艦操練所が設置され、正通及び他の御船手も水泳世話役を命じられました。

1857安政4年7月佐倉藩主堀田備中守正睦の家臣、水述師藩笹沼龍助は江戸出府の時、1853嘉永6年8月師である会津藩士高津助之進から許された『向井流水法秘伝書』を持参し正通を訪れました。正通に敬意を表すると共に秘伝書の検閲を願いました。このことは持参した秘伝書の表紙に朱筆で記されていました。

正通の長男吉次郎正民は1828文政11年2月11代将軍家斉に謁見しましたが、1833天保4年7月に病死しました。

正通次男源次郎正業(まさかず)は1834天保5年5月将軍家斉に謁見し、1845弘化2年7月父正通の務めを見習うようになり、12代将軍家慶が天地丸に乗船し、浜御庭に訪れ時には父正通の代役を務めたが、1853嘉永6年3月37歳で病死しました。

正通には長男正民、次男正業以外子がいなかったために1853嘉永6年12月20歳になる鷹匠頭戸田五介3男金三郎を迎えて養子とし、9代向井将監正義となりました。

最後の将監9代正義炉端談話「向井秋村(向井将監正義)」
1838天保9年生~1906明治39年3月24日68没
陽岳寺葬

1853嘉永6年12月20歳8代正道の養子となりました。

1856安政3年7月御船手見習いとなり、両国橋下で番士奥衆(小姓組・小納戸衆・側衆)と共に馬川渡(水馬)を披露しました。

1858安政5年3月御船手奉行となり、11月に布衣を許され、最後の『向井将監』となりました。奥衆等に水泳を教えてました。

1861文久元年7月14代将軍家茂に講武所に水泳を披露しました。

1862文久2年7月4日幕府軍制改革により、船手組が廃され、新たに軍艦操練所が設置されました。

維新後の明治34年雑誌『旧幕府』によると、鷹狩ではすべて小型の大川御座船が使われ、それぞれ江東区の大川御成、亀有御成、江戸川区の小松川御成と呼ばれたそうです。

御船手奉行の仕事が詳しく述べられています。

将軍お座船の艦長・鷹狩のお供(大川御成・亀有・小松川)・格式ある行事の取り仕切り

御成の手続き、道筋、順序等の決まりがあったそうです。

【遠島送り】町奉行からの遠島者を新島、三宅島に送り付ける仕事。八丈島送りは、前記両島の年寄りの仕事でした。命がけのうえ手当が少なかったので、配下の者は皆御船手になるのを嫌がったということでした。

【廻船調べ】1年に1度、品川に入った諸国の廻船の総数を調べて其筋へ出すのが役目。大仕事のようですが、廻船問屋さえ調べればすぐわかるので御船手を調べるというのは、建前のようでした。

【水泳指導】8代将軍吉宗の頃より始まり、毎年6月から8月まで、隅田川の水泳練習場で行われ、御船手が廃止されるまで行われていました。維新後、日本海軍や日本郵船で活躍した者に、この時指導を受けた人が多かったそうです。

1853嘉永6年6月3日、黒船来襲が起こりました。ペリー艦隊(汽走軍艦4隻・同輸送船3隻・帆船2隻4隻)が突然現れ、

幕藩体制は大きく揺れ動きました。10年後、1862文久2年幕府は御船手奉行を廃止、御軍艦操練所を作り、向井将監正義は初代頭取となりました。この時、勝海舟も頭取となり、水夫(かこ)同心を取り締まる正義と共に新時代の海軍力整備に乗り出しました。旧軍船を整備し終えた翌1863文久3年、正義は御使番となり、歩兵頭に転じました。16世紀の南北朝時代以来に渡る向井水軍の歴史は終わりました。

向井流水法 4代正員ー6代正直

4代正員ー8代将軍吉宗に水泳指導を命じられました。向井家相伝『御船手泳ぎ』(初代忠勝の父兵庫頭正綱が流祖)が正員によって流儀が整えられ、これより幕府による水泳指導が行われました。操船術の付属技術・敵前水法として発展し、その後水練の目標も加えられました。

6代正直ー1807文化4年に正直が編述した『向井家相伝』を根底として、9代正義の御船手廃止に至るまで水泳指導が続けられました。基本泳法は半身に構える平泳ぎを本体としており、抜手(ぬきて)・平搔(ひらかき)・肩指(かたさし)があり、飛込には順下・逆手の特色とする流儀です。

他の流儀は、陸上の耐水技術と発展した流儀と向井流は大きく異なっていました。まさに、日本泳法の一流派と称されています。

この水練については『南紀徳川史』にも記述されています。

8代将軍徳川吉宗が水練を奨励し、向井4代正員から先祖代々向井流が現代まで継承されています。現在、日本水泳連盟が公認しているのは、向井流を含めて13流派ということです。

日本に在来の遊泳術を「日本泳法」と呼び、実用本位で発祥したものが江戸時代になって太平の世が続いた江戸時代になって太平の世が続いた時に芸術の域に達しました。武芸18般の中に入り、「水練」と呼ばれていました。

武士のたしなみとして『一足・二水・三胆・四芸」と呼ばれ、「足」は健脚「水」泳ぎ「胆」精神力「芸」武芸。

泳ぐことは、歩くことの次に大事な武芸の1つでした。当然、師範家が存在し、家元制度をとっている流儀もあります。

向井流は江戸幕府御船手奉行向井家に相伝されてきた流儀と言われ、会津藩士高津助之進より皆伝免許を得た佐倉藩士笹沼龍介が1857安政4年7月に江戸の向井家を訪ね、1818文政元年向井正道が書き残した「向井流水法秘伝書」を奉呈しました。煽り足を基本とし、半立体での踏み込み煽りは他に類を見ません。

1871明治4年廃藩後笹沼龍介の子、勝用は東京に出て柔術を指導するとともに隅田川浜町で向井流教場を開き、広く流儀の普及に奮闘しました。向井流にとってこれが新たな伝承の道となり、名手も育成されました。

高弟鈴木正家は「向井流水錬道場」で上野正幸・徳太郎親子に伝授し、その他の一門は師名を冠して、笹沼・大山・山敷の諸流派を起こし、普及に努めました。

中でも山敷徳次郎派の仲野秀治・岩本忠次郎が結成した向井流共修会では心・技法・礼儀を重んじての指導がなされました。岩本忠次郎は9代向井正義の3男文哉を12代宗家に推し、自ら「向井流水法論」を著すなど向井流の再興に貢献しました。

岩本門下の浜田均・竹原栄による北海道小樽の地で戦時中疎開をするなど指導に貢献しました。普及努力の結果、平成3年小樽市では市の文化として向井流が定着したと認め、無形文化財に指定しました。

鈴木正家の系列上野徳太郎は自ら1943昭和18年「日本の水術」を著し、戦後は日本泳法大会資格審査首座として重責を担うなど向井流と日本泳法務めるなどし、同流の普及に努めました。

1955昭和30年向井文哉の次男二郎が13代宗家を継ぎ、伝承活動を続けてきましたが、平成22年5月30日に他界、現在、向井流各派が北海道・会津・東京で伝承活動を行っています。

明治以降の向井氏の子孫の後記

中央区で会社経営なさっていらっしゃる向井将監の子孫(忠勝5男の弟正次の家系)の方が忠勝などの先祖が生きていた住居の近くに住みたいとの思いで、終いの住処にと江東区にお引越しなされてお住まいのようです。中央区から現在は江東区に会社を移転なさっています。

『代々向井家には、正綱も忠勝も、徳川家に忠勤を励んだように見えるが、徳川に仕えながら徳川を嫌っていたという話も伝わっているとのことでした』

これは憶測になってしまうかもしれませんが海賊から水軍と徳川幕府の成立に貢献した忠勝親子は、もっと大きな海原に乗り出して行きたいという船乗りの大きな夢が立たれてしまったのではと思われます。海から陸に上がって幕臣旗本としての御船手奉行の役職は思っていたことと違ったのかもしれません。

初代向井将監忠勝の子孫が2代正勝を除いて3代から9代将監までが忠勝開基の陽岳寺に埋葬されていること。海賊から身を起こし水軍・御船手奉行と270年を生き抜いた向井家の業績を知って感無量の想いに、また一段と、向井将監の魅力を知りたいと想いに駆られました。

参考文献

参考文献 ウィキペディア   向井忠勝

     臨済宗妙心寺派 長光山陽岳寺ホームページ

        「向井将監に学ぶ」元東都読売新聞記者 石川明氏

        「戦国期向井素軍の足跡を辿って」鈴木かほる氏

     日本泳法概説「向井流水法書」竹原栄